富士通の社長・会長を務めた関澤義氏が、2021年1月20日、誤嚥性肺炎のため逝去した。享年89歳。最後にお会いしたのは、私が日本工業新聞を退社して2年後、関澤さんは会長を退かれる1年前の2002年だったと記憶している。東京・新橋の寿司屋で2人きりで会って、ざっくばらんに話を聞いた。いつも飄々としている印象があったが、もともと通信畑の技術者だったので、コンピューター事業がメーンとなった富士通を率いるのは何かと苦労があったのではないかと思っている。関澤さんを偲びつつ、当時を振り返ってみたい。ご冥福をお祈りします。

注)かなりの長文記事(約8000字)なので、時間があるときにごゆっくり。

 

1980年代、コンピューター売上高で国内トップに

  2000年末に新聞社を退社して丸20年が経過した。経済・産業記者としてIT業界を担当したのは1985年から約6年間だけで、まだIT(Information Technology)という言葉もインターネットもなく、IT業界の最新情報は新聞や雑誌など紙メディアから得るしかなかった時代だ。

  当時から技術進歩が激しい業界だっただけに、誰もが最新情報を得ようと積極的に交流していた。20代だった私のような駆け出し記者に会ってくれる企業経営者や役員も多かったのは、そんな業界の雰囲気が影響していたように思う。そのなかで個人的に親しくさせてもらったのが富士通の関澤さんだった。

  富士通は、富士電機の電話交換・伝送機器の部門が独立して1935年に「富士通信機製造」の名称で設立された通信機メーカーである。それから20年後の1954年に日本初の実用リレー式自動計算機「FACOM100」を開発してからコンピューターメーカーとして躍進。1980年にはコンピューター売上高で日本IBMを抜いて国内トップを記録した。

  かつて「電電ファミリー」(電電とは日本電信電話公社=現・NTTの意味)という言葉があったように、通信機市場はNTTや郵政省(現・総務省)の言うことを聞いていれば基本的に食っていける公共事業に近い市場。しかし、コンピューター市場では「巨人」と言われたIBMとの熾烈な競争の下で勝ち抜いていかなければならなかった。日本のコンピューターの父と言われる故・池田敏雄専務(1974年に51歳で死去)とともに戦ってきたエンジニアたちが富士通のコンピューター事業をけん引していた。

 15年間に及んだIBMとの知的財産権戦争

  関澤さんが、営業部門を統括する営業本部長に就任したのが1988年だ。それまで研究所などで通信機などの開発に携わっていた関澤さんを営業部門に据えたのは、当時、死闘を演じていたIBMとの著作権紛争の詳しい事情を知らされていなかったからではないかと私は想像している。

  15年間に及んだIBMとの著作権紛争のことは富士通社内でも限られた人間しか知り得なかった極秘情報だった。1988年11月の最終決着の後も守秘義務が遵守され、その合意内容に関する情報が漏れることはなかった。

  その全貌が明らかになったのは、決着から20年後、交渉責任者であった鳴戸道郎専務(当時、のちに副会長。2009年7月死去)が2007年、2008年に出版した2冊の本によってである。鳴戸さんとの思い出は、1冊目の本が出た直後に未来計画新聞で「雲を掴め/富士通・IBM秘密交渉を読んで―歴史的な意味をどう考えれば良いのか?(2008-03-20)」で書かせてもらった。

 この本の中で登場するのは、当時の山本卓眞社長(2012年1月死去)、半導体事業を統括していた安福真民副社長(2019年9月死去)、コンピューター事業を統括していた二宮昭一専務(2009年8月死去)ぐらいで、関澤さんらしき人物はほとんど登場してこない。営業の最前線でいろいろな人に会わなければならない関澤さんは、むしろ詳しい事情を知らない方が、都合が良かったのではないか。知らなければ重大な情報を漏らすことはないし、客観的かつ冷静に富士通のコンピューター事業を見ることができていただろう。

  IBMとの著作権紛争が決着した翌年の1989年には営業本部長を兼務したまま二宮専務に代わってコンピューター事業部門を統括し、1990年6月に社長に就任した。私は1991年2月には金融(日銀記者クラブ)担当に異動となるので、関澤さんとお付き合いがあったのは1988年から1990年までの3年程度だった。

 汎用コンピューターからパソコン時代へ

  最初に関澤さんを取材したのは営業本部長時代にパソコン事業がテーマだったと思う。主力の汎用コンピューター事業のことは、山本社長か、二宮専務に聞くしかなかったので、それ以外のコンピューター事業となると、パソコン、ワープロ、あとはオフコン、ミニコンといった製品が中心になる。当時は、東京・西新橋のFACTOMビルが営業部隊の拠点となっていた。

  日本のパソコン市場は、1982年に発売されたNECの「PC-9800シリーズ」が圧倒的なシェアを獲得しながら販売台数を伸ばし、1980年代後半には98帝国を築きつつあった。一方、エンジニア向けに1人1台のコンピューターを普及させようと、1985年には通商産業省(現・経済産業省)が国家プロジェクト「シグマ計画」を立ち上げて、UNIXワークステーションの開発競争が始まっていた。当時の状況については、下記のブログでお読みいただきたい。

 NEC社長の故・関本忠弘氏から広告出稿停止の圧力がかかった日のこと―記事「98帝国が崩壊する日」後日談(2007-12-02)

シグマ計画にみる国家IT戦略失敗の歴史(2007-08-06)

ソニーの土井利忠氏をNECの水野幸男氏に引き合わせた日のこと―UNIXワークステーション『NEWS』の結末(2008-06-8)

 富士通も早い段階からパソコン事業に力を入れていたが、IBM互換の汎用大型コンピューターとは異なり、パソコンは独自路線だった。それでも汎用コンピューターに接続して使用する端末としても売れていたため、パソコンの国内シェアはNECに次いで2位だった。

 IBM互換パソコンが標準機に

  1980年代は、汎用大型機からパソコンへとコンピューター市場が大きく転換しようとしていた時代である。1981年に米国ではIBMがオープンアーキテクチャー戦略で開発したビジネス向けパソコン「IBM-PC」を発売して一気にシェアを拡大。翌年の1982年にはIBM互換パソコンメーカーのコンパック(2002年にHPに吸収合併)も登場し、パソコン市場が大きく成長し始めていた。

  IBMは1984年に「IBM PC/AT」を発売して互換製品を駆逐しようとしたが、失敗に終わり、逆にPC/AT互換機がデファクトスタンダードとして世界市場に普及していく。こうした米国の状況を見て、日本でも1986年にアスキーとマイクロソフトが主導して日本版PC/AT互換機を開発する構想が浮上し、1987年10月にAX協議会が発足。AX規格に準拠したパソコンが各社から発売されることになった。

  NEC対抗のAX協議会には当然、NECは参加していなかったが、富士通と松下電器産業(現・パナソニック)も参加を見送っていた。松下は、海外市場向けにIBM互換パソコン事業を1986年から始めていたが、1987年2月にIBMソフトウェアの著作権侵害が発覚。和解合意内容は明らかにされなかったが、IBM互換パソコンの事業継続は難しくなっていた。

  AX協議会に参加した東芝などは、松下と同様に海外向けに開発・生産していたIBM互換パソコンをベースにAXパソコンの商品化を進めていた。しかし、富士通はこの時点で汎用コンピューターの著作権紛争が最終決着しておらず、IBM互換パソコン市場には参入していなかった。

 FM-TOWNS発売後に関澤さんが言ったこと

  1988年11月に富士通とIBMとの著作権紛争が最終決着した3か月後の1989年2月に、富士通は新型パソコン「FM-TOWNS」を発表した。まだフロッピーディスクが主流だった時代にCD-ROM搭載の32ビットパソコンで、33万8000円は破格の値段だった。

  FM-TOWNSは、ビジネス用途にも使える製品ではあったが、ホビー向け市場も狙った独自商品だった。私は、NEC98対抗の新商品が出ると予想していただけに、正直、拍子抜けしたのを覚えている。発表記者会見のあと、すぐに関澤さんに会いに行った。

  「君の言いたいことは分かっている。ただ、しばらくは黙って見ていてくれないか」―私の顔を見るなり、関澤さんにそう言った。きっと私が納得していないような表情をしていたのだろう。

  「なぜ、今の時期にFM-TOWNSなのかと言いたいのだろう?」と言うので、「そうですよ。IBMとの著作権紛争も決着して打って出るだろうと思っていましたから…」と率直な感想を言わせてもらった。「いろいろと書きたいことはあるだろうけど、3年は黙って見ていてほしい」と念を押され、その結果、3年どころか、30年以上も沈黙してしまったわけだ。

  それにしても、なぜ関澤さんは私にそんなことを言ったのだろうか。

 IBM互換パソコン市場にも参入

  ここからは私の想像だ。

  当時、富士通のコンピューターエンジニアには相当なフラストレーションが溜まっていたのではないか。巨人IBMに挑戦し続けてコンピューター技術では世界トップクラスの実力があるとの自信もあっただろう。しかし、ビジネス的にはIBM互換路線という制約があるため、自分たちが思うようなコンピューター製品をつくることが出来ない。

  「自分たちが考えた世界最高のコンピューターを作れば、必ず売れるはずだ」との思いが開発現場にあったのではないか。そうした欲求を抑えてしまえば、現場の士気を挫くことになる。内心では新製品の成功は厳しいと思いつつ、コンピューター事業部門の新しいリーダーとして、自ら先頭に立って「FM-TOWNS」を発売した。そうでなければ、私の顔を見るなり「黙って見ていてほしい」などとは言わなかったのではないか。

  その一方で、富士通はこれまで見送っていた海外向けIBM互換パソコンの生産を開始した。日本市場向けにAXパソコンの商品化は見送ったが、2年後の1991年には日本IBMが開発した日本語対応OS(基本ソフト)「DOS/V」の普及に向けたコンソーシアム「OADG(Open Architecture Development Group)」に参画。1993年にDOS/V搭載のパソコン「FMVシリーズ」の商品化に踏み切る。

社長就任内定後に目撃した出来事

  関澤さんは、1990年春の社長就任内定記者会見のあと、私を行きつけの新橋の寿司屋に連れて行ってくれたことがある。静かに二人で、カウンターで飲んでいると、奥のテーブル席に富士通の社員が3人で飲んでいるのに気が付いた。

  3人のうちの1人は、私も取材したことがあったコンピューター事業部の理事(取締役の一歩手前のポスト)のKさんだった。かなり酔っているようで、しばらくすると、こちらにフラフラ歩いてきて、関澤さんに絡み出した。

  「富士通の社長になる人間が、ゴルフがあんなに下手では困る。もっと練習して上手くならなければ社長失格だ!」

  関澤さんも、しばらくは適当にあしらっていたが、あまりにしつこいので「もう取引先とは一切、ゴルフはやらない」と言い出してしまった。そんなやり取りを間近で見ていて、私はこんなことを考えていた。

  「コンピューター事業部の内部には、IBM著作権紛争で功績がなかった、通信畑の関澤さんを社長として認めたくない人間が少なくないのではないか。IBMとの著作権紛争はとりあえず決着したが、これからの富士通の舵取りは関澤さんにとって大変だろう」

  関澤さんが社長に就任した後も、IBM著作権紛争解決の功労者である山本卓眞会長、鳴戸道郎副会長が君臨し、世界規模でIBM互換ビジネスを拡大していた。関澤さんが社長に就任した当時の富士通の連結売上高は約2兆円だったと記憶しているが、秋草直之氏に社長を譲った1998年には約5兆円までに成長。外から見ている限りは、順風満帆な経営に見えた。

 12年振りに新橋の寿司屋で再会

  社長在任8年で、事業規模を2.5倍に拡大したならば、本来、経営者として高く評価されて当然だろう。しかし、訃報が出た後、関澤さんの評伝は、ITジャーナリストの大河原克行氏がインプレスの「PCウォッチ」で書いたもの以外は、まだ見ていない。

  同時期に住友銀行(現・三井住友銀行)頭取だった巽外夫氏が2021年1月31日に亡くなった時には、日本経済新聞で論説主幹の原田亮介氏が大きく評伝を書いていた。巽さんが頭取だった当時、原田さんと私は日銀記者クラブに在籍していたので、懐かしく読ませてもらった。評伝となる経営者は、当時を良く知る記者が会社に残っているかどうか次第かもしれないが、何とも寂しい話である。

  私自身、関澤さんの社長時代は最初の半年しか知らないので、「経営者・関澤」の評伝を書くのは荷が重い。断片的な思い出話でお茶を濁すしかないのだが、2002年に関澤さんにお会いした時のことは今でも忘れられない。コンピューター担当を離れて12年が過ぎていたが、新橋の寿司屋で再会して話を聞くことができた。

  富士通は2001年度に連結売上高5兆4844億円のピークを記録したあと、急激に業績が悪化し始めていた。当時の秋草直之社長が業績悪化について「社員が働かないから」とインタビューに答えて物議を呼んだことは有名な話だが、私自身は業績悪化の原因は他にあるのではないかと疑っていた。だから直接、関澤さんに会って、そのことを確かめたかったのだ。

IBM互換機メーカーからITゼネコンへ

  「80年代に取材していた頃、富士通は輝いていたが、今ではすっかり元気がなくなった。その理由は何か」とズバリ聞いてみた。

  「IBMとの最終決着のあと、合意に基づくルールのもと積極的に互換ビジネスを展開し、IBMが経営危機に陥ったあとも米アムダール、英ICL、独シーメンスなど海外ルートを通じてIBM互換製品を世界中に売りまくってきた。結局のところ、IBM互換ビジネス以外に有効なビジネスモデルを確立できなかった」

  長年、富士通を率いてきた関澤さんとしては忸怩たる思いがあったのだろう。いくら経営のやり方、組織のあり方、人事管理の手法などを刷新して改革を進めても、新たなビジネス戦略を描くことができなければ、企業は稼げなくなっていくということである。

  通信畑の関澤さんはインターネットが普及する前のパソコン通信時代に、私に電子メールの使い方を初めて教えてくれた。そのことは「電子メールを初めて送った相手は富士通社長の関澤義さん―1990年に起きた日本初のコンピュータウイルス事件(2007-05-08)」で書いた。

 関澤さんであれば、インターネット時代に相応しい新しいビジネス戦略を描いてくれるのではないかと期待したが、IBM互換ビジネスに取って代わる新しいビジネスモデルを確立することはできなかった。5兆円規模となった富士通の屋台骨を維持していくためにはシステム構築を元請けして事業を拡大する「ITゼネコン」という道を進むしかなかったのかもしれない。

日本のIT戦略をけん引したのは誰か

  関澤さんに会った後、私はIBM著作権紛争の交渉責任者だった鳴戸道郎氏に会いに行った。ちょうど2001年から国家IT戦略「e-Japan戦略」がスタートしており、改めて「IBM互換ビジネスとは何だったのか?」を総括しなければ、富士通が復活することは難しいのではないかと思ったからだ。

  しかし、鳴戸さんは私の申し出を断り、自ら2冊の本を書いた。1冊めの「雲を掴め」に続き、IBM著作権紛争決着を描いた第2作「雲の果てに」のエピローグの最後にこのような言葉を残している。

  「“雲の果て”に雲がある。ネット、ソフトウェア、コンテンツ、システムの覇権争いは限りなく続く、しかし本質は不変である」―巨人IBMとの15年戦争を戦い抜いた戦士の言葉である。そこには、これまでの戦いの延長線上に、これからも富士通はあり続けるというメッセージが読み取れる。当事者が書けば、当然、そうなるだろうが、果たして富士通は雲の果てへ飛躍できたのだろうか。

  e-Japan戦略をけん引したのは、富士通などのITゼネコンではなく、計画立案から関わったソニー会長の出井伸之氏だったし、出井氏が最大の功労者と評価していたのはソフトバンク社長の孫正義氏だった。

<参考>ソニー最高顧問出井伸之氏インタビュー:e-Japan戦略の舞台裏を語る「IPv6に向けたインフラ整備を」(2006-01-09=BCN掲載)

ジョブ型で稼げる企業に生まれ変わるのか

  e-Japan戦略が始まって20年が経過し、日本政府は再びデジタル戦略に力を入れ始めた。経済産業省も2021年2月に「デジタル産業創出に向けた研究会」を立ち上げ、ベンダー企業が「DXを支援する企業」に向けて変革を進める必要性を強調。その直後に日本経済新聞が5回シリーズで「富士通 再起動なるか」を連載した。

  「ジョブ型で脱・年功序列」「新事業トップ ジョブ型で」「DX企業転身へ―子会社の人事制度厳しく」「元外資が壊す内外の壁」―日経新聞の見出しには人事制度に関するものがズラリと並ぶ。関澤さんの時代に管理職から導入が始まった「成果主義」は、その後の富士通の凋落の原因の一つとされ、今回の連載でも「早すぎた成果主義」との見出しが躍っていた。

  富士通は本当に「再始動」できるのか―。人事制度をいくら改革したところで、突然、社員が働いて成果を出し始めるわけでもないだろう。そもそも“ITゼネコン”というビジネスモデルをDXによってどう変革していくのか。肝心のビジネス戦略が見えてこない。

  世界のIT市場が拡大し続けるなかで、かつては世界第2位のコンピューターメーカーだった富士通の売上高は2020年度(見込み)で3兆6100億円までに落ちてきた。明らかに稼ぐ力が衰えてきているように見える。関澤さんが私に言った「IBM互換ビジネス以外に有効なビジネスモデルを確立できなかった」を克服できるのだろうか。

  明治時代に創業した旧古河財閥は、新しい分野に進出した子会社が親会社を追い抜いて成長していくというDNAを受け継いできた。古河機械金属を発祥として、古河電気工業、富士電機、富士通、ファナックと続いてきた系譜は今後どうなるのか。企業の歴史を考えるうえで興味深いところである。

 アナザーストーリー・富士通と松下

  関澤さんが亡くなって、私がIT業界の昔話を書く機会は、もうないだろう。この記事をまとめている過程で思い出したことがある。余談ではあるが、記録として残しておく。

  富士通がFM-TOWNSを発売した後、松下電器産業もFM-TOWNSの供給を受けて発売するといったニュースが流れたことがあった。松下電器は、1973年に富士通と合弁で「パナファコム(現・PFU)」を設立して以来、コンピューター分野では富士通と提携関係にあった。

  松下電器では、松下幸之助氏の大抜てき人事で社長に就任した山下俊彦氏から1986年に谷井昭雄氏へ交代。コンピューター関連事業は村瀬通三副社長が担当し、従来通りに富士通との協力関係を軸に事業を展開していた。

  当時、松下電器には、のちに高知工科大学学長に就任した水野博之氏(2014年死去)が副社長として在籍していた。半導体技術の世界的な権威で、松下電器の技術全体を統括していた。

  その水野氏から「松下のコンピューター事業について君の意見を聞きたいから、大阪まで来てほしい」と、大阪・門真にある技術研究所に招かれたことがあった。コンピューター事業は村瀬副社長の担当なのに、なぜ水野さんは私を呼んだのか―。

  水野さんは、富士通との提携関係の下で進めていたコンピューター事業に疑問を持っていたということだ。表向きは世界のコンピューター市場の技術動向や将来予測について意見交換しただけではあったが、明らかに松下のコンピューター戦略を転換しようと考えていた。

  この出来事は、広報を通さずに水野さんの秘書と直接やり取りしていたので、記事に書くこともなければ、松下や富士通の他の人間に話すこともなかった。面談のお礼として水野さんに贈っていただいた備前焼の花瓶が、私の手元に残っているだけである。

(了)

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