私が新聞記者として在籍していた「日本工業新聞」について簡単に説明します。すでに日本工業新聞の題字が『フジサンケイビジネスアイ』に変更されて4年近くが経過し、日本工業新聞という新聞があったことを知らない方も増えているかと思います。先日もコラムで取り上げた昔の記事について「『日刊工業新聞』のデータベースを探しても見つからない」との問い合わせをいただきましたので、改めて概要を紹介します。

 日本工業新聞は、1933(昭和8年)に大阪で創刊された産業経済紙です。その後、第二次世界大戦で物資が不足してきた1942年(昭和17年)の新聞統合令によって、関東地区の経済紙が「日本経済新聞」に、関西地区は「産業経済新聞(産経新聞)」に統合・集約されました。

 戦後、日経新聞に統合されていた日刊工業新聞社が再び独立して『日刊工業新聞』の題字が復活。産業経済新聞は、1950年に経済紙から一般紙へと転換し、その後、題字も「サンケイ新聞」に変更(1988年に産経新聞に戻す)したため、1957年(昭和32年)に産業経済新聞の子会社として日本工業新聞社を設立し、58年から産業経済紙として『日本工業新聞』を復刊しました。

 創刊当時、産経新聞に入社した森喜朗元首相が、日本工業新聞に配属となり、2年間、記者活動したのは内部的には良く知られたエピソードです(森元首相のプロフィールには、産経新聞としか書かれていませんが…)。ちなみに、今年2008年は「産経新聞創刊75周年」のキャンペーンを展開していますが、1933年の日本工業新聞創刊から数えた数字です。

 私が入社した当時は、日経産業新聞、日刊工業新聞、日本工業新聞の3紙が産業経済3紙と言われ、産業界の情報を発信する役割を担っていました。しかし、インターネット時代を迎えて紙媒体はどこも厳しい時代を迎えており、とくに企業自身が情報発信機能を強化したことで産業経済紙はいずれも苦戦を強いられているようです。

 もともと日刊工業新聞さんに間違われてばかりの存在感の薄い新聞でしたが、とうとう、2004年3月に産経新聞が100%子会社化したのを機に、題字を『フジサンケイビジネスアイ』に変更してしまいました。会社名として日本工業新聞社は残っていますが、対外的にはフジサンケイビジネスアイに統一しているようです。

 さらに2007年10月には、産経新聞経済部とフジサンケイビジネスアイ編集局が統合され、「産経新聞編集局経済本部」となりました。私が在籍していた当時から、日経新聞のように編集部門を一本化するのは長年の懸案事項でしたが、現在の日本工業新聞社には営業部門などだけが残り、とうとう記者はいなくなってしまいました。

 日本工業新聞出身で、ジャーナリストとして活躍している人も何人かいますが、プロフィールを見ても日本工業新聞出身を名乗っている人はほとんど見かけません。いずれ『日本工業新聞』の題字も人々の記憶からも消えていくことになるでしょうが、それまでは希少な存在である日本工業新聞元記者を名乗り続けようかと思っています。

 なお、日本工業新聞は、縮刷版を発行していませんでした。バックナンバーを調べるのも大変ですが、産経新聞本社や国会図書館などで調べることは可能だと思います。

<千葉利宏(ちば・としひろ)>

1958年北海道札幌市生れ。東京理科大学理工学部建築学科を卒業後、84年に日本工業新聞(現・フジサンケイ・ビジネスアイ)に入社、経済・産業記者として活動。これまで担当してきた主な分野は、次の通り。

85〜86年 半導体産業担当(主な担当事案:日米半導体摩擦)
86〜90年 コンピュータ産業担当(IBM著作権紛争、日米構造協議)
91〜93年 日銀担当(バブル崩壊、住宅専門金融会社問題)
93〜96年 自動車産業担当(日米自動車摩擦問題)
96〜00年 建設省(現・国土交通省)担当(ゼネコン経営破たん、不動産証券化)
2001年〜 個人事務所として(有)エフプランニングを設立し、ジャーナリスト活動をスタート。

<所属団体>
日本不動産ジャーナリスト会議 幹事
http://journalist.realestate-jp.com/

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