【IT】ソニーの土井利忠氏をNECの水野幸男氏に引き合わせた日のこと―UNIXワークステーション『NEWS』の結末(2008-06-8)

 今月4日に設立20周年を迎え、ソニー本社で記念シンポジウムが開催された「ソニーコンピューターサイエンス研究所」を設立したのは、ロボット犬「AIBO」の開発者として有名な土井利忠氏である。06年5月にソニーを退職して7月には生前葬を執り行っているので、いまは天外司朗氏と名乗っているようだ。私が最後に土井さんに会ったのは、92年にNECとソニーがUNIXワークステーションで業務提携した時のこと。手元にはソニーのUNIXワークステーション「NEWS」の足跡を独自にまとめたレポートSONY『NEWS』の戦略」(1989年3月20日執筆)が残っている。土井さん自身もあまり語っていないNEWSの歴史を目撃者として記録しておく。

ソニーのコンピューター事業立ち上げの立役者だった土井さん

 最初に土井さんにお会いしたのは、86年に「NEWS」を引き下げてソニーがコンピューター分野に参入したあとである。日本のコンピューターの歴史には必ず登場する国家プロジェクト「Σ計画」が85年にスタートして、UNIXワークステーションへの注目度が高まっていた時期だった。すぐに取材を申し込んだものの、当初は広報がなかなか時間を取ってくれず、苦労した記憶がある。しばらくして土井さんが雑誌アスキーの女性編集者を自分の秘書にスカウトし、連絡が取りやすくなってから取材が進んだ。

 ソニーがNEWSを発売したあとの事業戦略は、今回ブログに掲載したレポート(原稿用紙50枚と長いので、読むのは大変かもしれないが…)で、当時のプレスリリースを整理しながら、かなり詳細にまとめてある。とにかく事業を立ち上げた当初2年間のソニーの勢いは目覚しかった。89年度のUNIXワークステーションの国内シェア(日本データクエスト調査)は、トップが米ヒューレット・パッカード(HP)の27%、2位が米サン・マイクロシステムズ(Sun)の24%(富士通などへのOEM=相手先ブランドによる供給分を含む)、3位にソニーがシェア20%で食い込み、日本メーカーではトップだった(以下、4位NEC6.3%、5位オムロン5.5%と続く)。

 ソニーはすでにエレクトロニクス分野で世界ブランドであったが、コンピューター市場では全くの無名。UNIX市場が立ち上がるチャンスを捕らえてソニーブランドを売り出すことに見事に成功したわけで、土井さんは88年に45歳の若さでソニー取締役に抜擢された。同時に、ソニーコンピューターサイエンス研究所の設立も実現。取締役就任と研究所設立によって、Sun互換と低価格戦略で地歩を築いたコンピューター事業を、ソニーの基幹ビジネスへと育てる重責を背負わざるを得なくなった。しかし、土井さんにとって不運だったのは、UNIXを取り巻く世界の市場環境が急激に変化し始めたことだった。

UNIX戦争の勃発で歯車が狂い始めた戦略

 奇しくも同じ88年に、UNIXを巡って大手コンピューターメーカーの間で主導権争いが勃発した。UNIXワークステーション市場で急成長してきたSunが、UNIXの開発元である米ATTと急接近し、ATTがSunに資本参加したのが発端だった。UNIXシステムでSunとトップシェア争いをしていたHPが、米IBMと当時は世界第2位のコンピューターメーカーだった米DEC(1998年に米コンパックに買収され、02年にそのコンパックをHPが買収)とOSF(オープン・ソフトウェア・ファウンデーション)というUNIX標準化団体を設立。対抗してSunとATTがUI(UNIXインターナショナル)という団体を設立し、業界を二分して”UNIX戦争”と呼ばれる勢力争いが始まった。

 当然、日本メーカーもこうした流れに巻き込まれていく。SunはUI設立を契機に、自社製品のOEM供給や、独自開発したRISC(縮小命令セットコンピューター)構造のCPU(中央演算処理装置)「SPARC」のライセンス供与を積極的に展開し、勢力拡大に乗り出した。日本でも88年に富士通と業務提携してワークステーションのOEM供給を開始。UI陣営には、富士通のほかに東芝、NECが参加する一方、OSF陣営の主要メンバーには日本メーカーで一社だけ日立製作所が名を連ねた。

 コンピューター分野では新参者のソニーは、こうした勢力争いに距離を置きながらも微妙な立場に追い込まれつつあった。Sun互換路線でビジネスを拡大してきたソニーにとって、OSF陣営に参加してSun互換を簡単に捨てるわけにもいかない。だからと言ってUI陣営に参加してSunの軍門に下れば、日本市場では富士通や東芝などとの競合でシェア低下は避けられず、積極的に進めていた海外戦略にも制約が加わる可能性が高かった。

 加えてUNIXワークステーションの心臓部であるCPU(中央演算処理装置)技術にも変革が起こっていた。パソコン用CPUは、すでに当時から米インテル製チップが圧倒的なシェアを持っていたが、UNIXワークステーション分野では、演算処理速度を高速化するRISC構造のCPUが新たに登場して、シェア争いが始まったところだった。当時、製品化されていた汎用RISCチップは、Sunが開発したSPARC、米モトローラのMC88、HPのPA-RISC、米ミップスコンピューターのMIPSの4種類。UNIXワークステーション事業を続けていく以上、UNIXと同様にRISCチップも4種類の中からどれかを選択せざるを得なかった。

ソニーの土井さんとNECの水野さんの極秘会談をセッティングゥ〜

 レポート「SONY『NEWS』の戦略」をまとめた89年3月頃は、88年に始まったUNIX戦争の影響はまだ市場に表れていなかった。しかし、いずれは主要メーカーから各陣営ごとに標準化されたUNIXとRISCチップを搭載した新製品が登場してくる。そうなれば、UNIXワークステーションのシェア争いも新たな局面を迎えるのは明らかだった。ソニーとしても、将来に向けた戦略を市場に対して打ち出す必要に迫られていた。

 土井さんは、UNIXについてUIとOSFの両陣営に参加して中立的な姿勢を示す一方で、RISCチップはMIPSを採用することを決めた。Sun互換路線から軌道修正していく道を選んだことになる。しかし、大手メーカーが合従連衡しながら激しい勢力争いを展開しているなか、まだコンピューター事業を立ち上げたばかりのソニーが単独で戦っていくことができるのだろうか?90年の春だったと記憶しているが、そんな疑問をストレートに土井さんにぶつけてみた。

 「土井さん、NECの水野さんをご存知ですか?同じMIPSチップの採用を表明しているNECと組めば、面白いんじゃないかと思っているのですが…」

 水野幸男氏(2003年逝去)は、当時はNECの副社長で、日本のソフトウェア工学の権威として情報処理学会の会長も歴任した方である。土井さんも、私が水野さんの名前を持ち出したので興味を持ったのかもしれない。その数日後、水野さんを取材する機会があったので、「ソニーの土井さんに会ってみませんか?」と聞いてみると「いいよ」という話になった。

 NECでは、90年1月に東京・田町の本社ビル「NECスーパータワー」が完成したばかりだった。その最上階にあるVIPルームで会うことになり、夕方、土井さんを品川のオフィスまで迎えに行き、2人でNEC本社を訪ねた。同席したのは3人のほかに、当時は広報課長だったNECコーポレートコミュニケーション部長の荒井俊則氏だけ。最初に食事をして、ラウンジに移って飲みながら懇談した。

 「千葉くん、30分ばかり土井さんと2人にしてくれないか?」―しばらくして水野さんがそう切り出した。その30分間に2人でどのような話をしたのかは判らないが、あとから荒井さんに「両社で具体的な検討を始めることにした」という水野さんの伝言を聞いた。

業務提携の発表のあと勝手にお祝いの会を開いたのだが…

 両社の業務提携が発表されたのは、2年後の92年のことだった。私は91年2月にIT担当から金融担当に変わっていたので、経団連会館で記者会見が行われる2日前に後任の担当記者から聞いた。しかし、3人で会ってから2年間で、UNIXワークステーション市場の環境は大きく変化していた。私が当初、勝手に思い描いていた「面白い」ことにはならずに、ソニーはUNIXワークステーション事業をNECに譲渡して、コンピューター事業から撤退していくことになる。

 記者会見での発表内容は、表面上は業務提携となっていたので、しばらくコンピューター業界の取材から遠ざかっていた私は、そうした裏の事情まで当時は十分に把握していなかった。自分の思いつきで実現した成果がただうれしく、30代前半だった若造記者が生意気にも、大企業の役員2人を東京・青山の中華レストランに招いてお祝い(?)の会を開いた。水野さんは上機嫌だったが、土井さんは少し元気がないように見えたのが気になった。

 今、思い返せば、土井さんには失礼なことをしたのかもしれない。それからは残念ながらお会いしていない。その後、土井さんはソニーの中央研究所に戻って、ロボットの開発に着手。1999年に発売されたAIBOで再び脚光を浴び、NHKのプロジェクトXにも登場した。ただ、その後もNEWS時代のことはあまり語っておらず、ご本人にとっても良い思い出ではなさそうだ。そんな話を勝手に書くのは問題かもしれないが、すでに水野さんは亡くなり、土井さんも生前葬を済ませて俗世に未練はお持ちでないだろう。

 「日本IT書紀」の執筆などでITの歴史を書き残すことに力を入れているIT記者会代表幹事の佃均氏からも「忘れる前に書いておくべき」と助言されている。今後も、何かの機会に思い出したことを古い資料などを手がかりに書き留めておくことにしたい。