【IT】雲を掴め/富士通・IBM秘密交渉を読んで―歴史的な意味をどう考えれば良いのか?(2008-03-20)

s-IMG_1885.jpg 伊集院丈氏こと、鳴戸道郎・富士通元副会長が昨年11月に出版した「雲を掴め/富士通・IBM秘密交渉」(日本経済新聞出版社)を読んだ。最後に伊集院さんにお会いしたのは2002年だったと記憶しているが、いずれ自ら本を執筆するのではないか?との予感はあった。私自身も取材に奔走した歴史的な事件について当事者から語られたことに感慨深いものを感じる。その後、両社の交渉が最終決着したのが1988年11月で、今年はちょうど20年目の節目だ。日本のIT産業が置かれている現状を考えるとき、この歴史的な事件をどのように位置づければよいのだろうか?

写真:本の上にある黒い円筒形に物体は、鳴戸さんにいただいた富士通製汎用コンピューター用の半導体チップ

鳴戸さんが見せてくれた写真が意味するものは?

 鳴戸さんとは、忘れられないエピソードがある。両社の交渉が最終決着してから6年、私が自動車担当記者だった1994年のことだ。まだミニバン「オデッセイ」を発売する直前で国内販売が低迷していた本田技研工業を取材するために、同社首脳の自宅を夜回り(日本のマスコミの悪しき習慣と非難されることもしばしばだが…)した時のことである。

 自宅の前の道路は自動車がすれ違うのがやっという道幅で、車を止めておくことができない。家のかなり手前に車を止めてから歩いて自宅に向かい、呼び鈴を押したが、インターホン越しに「まだ帰宅していません」。仕方なく、しばらく待とうかと思った時だった。背後に車が近づく音が聞こえたので、タイミングよく帰宅したと思って振り返ると、黒塗りのハイヤーがスーッと通り過ぎた。誰が乗っているのかと目を凝らすと、車中の人も後ろを振り返って私の方を見ている。

 「あっ、鳴戸さんだ!」―瞬間的に思い出した。本田首脳の自宅の数軒先に、コンピューター担当だった頃に何度か夜回りしたことがある鳴戸さんの自宅があったことを。思わずフラフラと歩いていくと、車から降りた鳴戸さんがニコニコ笑いながら、家の前で待っていてくれた。

 「久しぶりだね」と声をかけられて、私は初めて鳴戸さんの家に招かれた。IBM・富士通ソフトウェア紛争の時に、交渉現場の責任者だった鳴戸さんは一切、取材には応じてくれなかったからだ。富士通の広報を通した正式な取材は完全にシャットアウトされ、鳴戸さんに会うには自宅などを直撃するしか方法はなかったが、家の中に入られたらアウト。帰宅するのを待ち構えて、車から家に入るまでに一言、二言、話するだけだった。

 そんな関係ではあったが、鳴戸さんは私のことを覚えていてくれた。応接間に通してくれて1時間近く、いろいろな話をした。まだ、この時期は両社に守秘義務が課せられていた時期であり、具体的な話はなかったように思う。「6年前まではいろいろと大変だったよなあ」といった昔話に花を咲かせたと記憶している。

 しばらくして、鳴戸さんはふと何を思ったのか、「面白いものを見せてあげるよ」と言って、一枚の写真を持ってきた。そこには、私がいま座っているソファーに、鳴戸さんと恰幅の良い2人の白人男性がにこやかに座っている姿が映っていた。

 「えっ、これは?」と、私が思わず聞き返すと、「まっ、そう言うことだ」と一言。そう言ったきり、鳴戸さんははぐらかすように話題を他に移した。

IBM・富士通ソフトウェア紛争に対する疑念

 IBM・富士通ソフトウェア紛争を取材していた頃、心の片隅にある疑念を持ち続けていた。両社が知的財産権を巡って死闘を展開していると言われてはいたが、「実際のところは、出来レースじゃないのか?」との思いがどこか断ち切れなかった。なぜならIBMワールドのコンピューターを世界市場に普及させるという点では、両社は運命共同体であるように思えたからだ。

 IBMが著作権を武器に日立や富士通などの互換機メーカーへの圧力を加え始めたのは、米司法省との独禁法を巡る訴訟が和解したあとからだ。しかし、いくら独禁法の鎖が解き放たれても、日立や富士通、アムダールなどの互換機メーカーを潰してしまえば、独禁法問題が再燃するのは避けられないように思えた。同様に、互換機メーカーにとっても、IBMあっての互換機であり、IBMの力が衰えて互換機メーカーがIBMに取って代わることは常識的に考えにくかった。

 IBMと互換機メーカーは共存共栄の関係にあるのであって、必ずしも敵対関係にあるわけではない。当時はUNIXが台頭し始めていた時期であり、コンピューターの世界もIBMワールド以外へと多様化し始めていた。同じ頃にエプソンが、当時全盛だったNECのパソコン「PC-9801シリーズ」の互換パソコンを開発してパソコンビジネスへの参入、注目を集めていた。その後、エプソンの98互換パソコンは、PC98の衰退とともに市場から消え去り、エプソンはパソコン事業からも一時期は撤退を余儀なくされたわけで、それが互換機ビジネスの宿命でもあった。

 IBMと富士通の紛争も、知的財産権保護と互換機ビジネス継続の問題が大きくクローズアップされていた。そうは言いながらも、突き詰めればビジネスライクに「いくらカネを払うのか?」の問題であるように思えた。新聞の論調は、最初のころは富士通が互換機ビジネスを継続できるかどうかに注目が集まっていた。しかし、88年の最終決着で富士通が支払う和解金の総額が1000億円近くであることが明らかになると、その代償の大きさに驚きの声が上がった。今から振り返ると、この結末がコンピューター市場をIBMワールドからオープンシステムへと大きく転換させるきっかけだったのではないだろうか。

 最終決着のあと、当時富士通社長だった山本卓眞名誉会長に、こう尋ねた。「今回、発表になった内容が、IBM・富士通紛争の全てではないように思うのですが…。いつか真相を話していただけませんか?」
 「これ以上の話はできない。真相は墓場まで持っていく」と、山本さんはキッパリと言い切った。

 この時点では、両社の守秘義務が97年まであることは明らかになっていなかったと記憶している。「墓場まで持っていく」発言は、単に守秘義務があることをそう表現しただけかもしれない。しかし、90年代に入ってコンピューター市場が大きく様変わりするなか、守秘義務が期限切れになる前に、事件そのものの風化が急速に進み出していた。

 私自身も、鳴戸さんに写真を見せてもらったあと、いずれは事件の真相について話を聞くチャンスがあればと思っていたが、それを聞いたところで事件を記事にする社会的にニーズも薄れつつあった。それでも新聞社を退社したあと2002年に、私は鳴戸さんのところを訪ねることにした。2001年から富士通の業績が急激に悪化し始めていたからである。

「もう過去は振り返らない」と言った意味は?

 鳴戸さんはすでに富士通本体の副会長を退任して富士通総研の会長だった。総研の本社は別にあったが、当時の富士通本社の役員応接室で鳴戸さんに会うことになった。広報担当者が立ち会って鳴戸さんに会うのは初めてのことだった。

 用件は他でもない。「新聞社を辞めてフリーになったので、ぜひIBMと富士通の紛争について本を書いてみたいと思っているのですが…」とお願いすることだった。

 紛争が最終決着したあと、IBMは93年に経営危機に陥り、全世界の従業員の半分をリストラする事態となった。そして、富士通も、2001年になって過去に経験したことのない経営悪化に見舞われていた。「社員が働かない」という発言で、当時社長だった秋草直之会長がマスコミから袋叩き状態になっていた。社員が働かないのは成果主義の人事制度に原因があるといった声も出ていた。

 しかし、私には原因は別のところにあるように思えた。IBMとの最終決着のあと富士通は、合意に基づくルールのもと積極的に互換ビジネスを展開し、IBMが経営危機に陥ったあとも米アムダール、英ICL、独シーメンスなど海外ルートを通じてIBM互換製品を世界中に売りまくってきた。結局のところ、IBM互換ビジネス以外に有効なビジネスモデルを確立できなかったことが、富士通が経営危機に陥った原因なのではあるまいか。

 「富士通が再生するためにも、IBM互換機ビジネスが富士通に何をもたらしたのかを、今こそ明らかにしておく必要があるのではないですか?」―鳴戸さんに本を書きたいとお願いした私の問題意識はそこにあった。紛争決着の後、日本を代表するIT企業である富士通が大きく飛躍することを期待していた記者として、停滞した状況を打破してほしい。日本のIT産業が世界市場で戦えない理由を客観的に分析するという視点から、IBM・富士通ソフトウェア紛争を総括する必要があるのではないかとも考えていた。

 そんな申し出に鳴戸さんからは、こんな言葉が返ってきた。
「過去は、もう振り返らない」
「そうはおっしゃいますが、NHKのプロジェクトXでは、富士通コンピューターの立役者である故・池田敏雄氏を大々的に取り上げてもらっているじゃないですか。あれも過去じゃないんですか?」
「プロジェクトXは、前向きだから良いんだよ」

 最後に鳴戸さんは、富士通の汎用コンピューターに使われていた半導体チップを私に手渡した。役目を終えたIBM互換機がユーザーから引き取られて戻ってきたと聞くと、わざわざ倉庫まで出向いてマザーボードに乗っている半導体チップを剥がして持ち帰っているのだという。鳴戸さんの汎用コンピューターに対する強い思いが伝わってきたのと同時に、「本当の実情も知らない第三者にIBM・富士通紛争のことを書かれたくはない。書くのなら、自分以外に書くべき人間はいない」と鳴戸さんが暗にそう言っているように思えた。

 その鳴戸さんが病と闘いながら書き上げたのが「雲を掴め」である。この本では、1982年のIBM産業スパイ事件から、富士通IBM秘密交渉が一応決着した83年6月までを描いている。私が新聞社に入社したのは84年4月で、コンピューター担当となったのは86年2月。すでにIBM・富士通ソフトウェア紛争は第二ラウンドの米国商事仲裁協会(AAA)での調停(85年7月〜88年11月)に突入していた。

 鳴戸さんは、病を克服して第一作の後編の執筆準備を進めていると聞く。雲を掴めで取り上げた話はまだ書きやすかったのではないかと思うが、果たして第二ラウンドはどういう切り口で書くのだろうか?真相をどこまで語っていただけるかが楽しみである。

 IBM・富士通ソフトウェア紛争の経緯については、日経コンピュータ(日経BP社)の当時編集長だった松崎稔氏が、鳴戸さんの本の最後に解説として書いている。日経BP社の情報サイト「ITプロ」にも2006年10月に松崎氏の「初めて明かす『IBM・富士通紛争』と徹底報道の舞台裏 」(http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20061012/250584/?ST=system)が掲載されている。