【IT】シグマ計画にみる国家IT戦略失敗の歴史―公共工事CALS/EC不要論の背景(2007-08-06)

 「公共工事CALS/EC不要論」を今年1月にブログに掲載したら「不要論を書いた背景を話してほしい」との依頼があって講演する機会があった。「CALS/ECも、このままでは80年代に大失敗に終わったIT国家プロジェクト”シグマ計画”の二の舞になってしまうのではないか?」と話をした。IT業界では有名なシグマ計画も、建設など他の分野ではほとんど知られておらず、その失敗が学ばれていないことが判った。社会保険庁の消えた年金記録問題も役所でIT化を推進する過程で発生した問題である。なぜ役所主導のITプロジェクトは失敗を繰り返すのだろうか?

 80年代からIT業界に関わっている人なら、シグマ計画のことを知らない人はまずいない。先日も経済産業省の幹部と話をしていたら「シグマのような失敗は繰り返さない」と今でも引き合いに出してくるほどだから、経産省にとってあまり触れてほしくない古傷である。

ソフト時代への変化をリードするはずだったシグマ計画

 日本のIT産業は、70年代に当時の通産省主導で実施した電算機開発プロジェクトで、ハードウェア技術ではIBMに対抗できるまでに成長した。しかし、80年代に入ると、IBMはこれまでハードとソフトを一体的に取り扱ってきた政策を見直し、ハードとソフトを別々に取り扱う「アンバンドリング戦略」へと転換する。

 米国政府も、これに呼応するようにコンピュータープログラムを著作権で保護する知的財産権戦略を本格化した。1982年には日立製作所、三菱電機の担当者がFBIのおとり捜査で逮捕される「IBM産業スパイ事件」が発生。IBM互換の汎用コンピューターを主力とした富士通も83年にIBMとのライセンス契約を結んだ。まさにITの潮流がハードからソフトへと大きく変化した時代だった。

 通産省でも、日本のソフトウェア産業の育成が急務と判断。「1990年頃には、日本のソフトウェア技術者が60万人不足する」―そんな試算に基づいてソフト技術者の育成を目的に85年度から鳴り物入りでスタートしたのがシグマ計画だった。その後5年間に渡って総額250億円が投入され、成功していればNHKの「プロジェクトX」にも真っ先に取り上げられていたかもしれない。

 プロジェクト発案者は、独立系システム開発会社、SRAの専務(現在は最高顧問)で、コンピューター基本ソフト「UNIX」の技術者として知られた岸田孝一氏だった。私も何度か岸田氏を取材させてもらったが、当初のアイデアは「ソフトウェアの開発者・研究者が自由に情報やソフト開発ツールを交換できるUNIXベースの全国通信ネットワークを構築する」というものだったという。

 ところが、そのアイデアを聞いた通産省の役人と、ハード主体の大手IT企業が中心となってシグマ計画を策定する段階になって、プロジェクトの目的が摩り替わっていく。「ソフト技術者が不足する」→「効率的なソフト開発を支援する標準プラットフォームが必要」→「90年をめどに1台100万円台の低価格UNIXワークステーションを開発して普及させる」という見事(?)な三段論法で、ソフト主体のはずのプロジェクトが、ハード主体へと変質してしまったのである。

UNIXの歴史と文化に憧れた日本の先駆者

 UNIXは、米ATTのベル研究所でケン・トンプソン氏が中心となって1960年代に開発された研究用の基本ソフトであった。詳しい経緯はウィキペディアなどを参照していただきたいが、現在注目されているオープンソースソフトウェア(OSS)の先駆けとして当初は無償で公開されたために大学や企業のソフトウェア研究者に普及し、機能強化が図られてきたという歴史がある。

 70年代にカリフォルニア大学バークレイ校でUNIXの研究が進み、「バークレイ版(BSD)」と呼ばれるUNIXが開発された。このバークレイ版に、現在でもインターネットに利用されている通信プロトコル(手順)「TCP/IP」が組み込まれたことで、研究者や開発者たちに幅広く利用され、このプラットフォーム上で新しいソフト技術が次々に開発されるようになる。こうした米国の状況を見た岸田氏が、日本にも米国のようなソフト開発のためのネットワーク環境を実現させたいと考えたのも当然だろう。

 80年代に入ると、大学や研究所で発展してきたUNIXを商用化する動きが本格化する。UNIXの本家であるATTでは、分割民営化の動きに合わせてUNIXのライセンスビジネスをスタートし、独自に商用化した「システムV(ファイブ)」の普及に力を入れ始めた。

 一方、バークレイ版の開発に携わっていたビル・ジョイ氏を招いて、UNIX研究が盛んだった米スタンフォード大学出身のアンディ・ベクトルシャイム氏やスコット・マクネリー氏らが1982年に米サン・マイクロシステムズを設立。バークレイ版を搭載したUNIXワークステーション事業を立ち上げた。

 シグマ計画がスタートする時点で、ルーツは同じでも異なる2つのUNIXが存在していたことになる。しかし、岸田氏の頭の中ではソフト研究者・開発者に広く利用されていた「バークレイ版」をシグマ計画に採用するのが当然との思いがあった。

ソニーの参入で出番を失ったΣステーション

 国家プロジェクトには、いろいろな思惑も入り込むし、必ずしも一枚岩というわけにもいかない。さまざまな時代背景もあって、成功と失敗も紙一重と言える部分もある。シグマ計画でも、岸田氏の思いは裏切られ、「システムV」をベースにプロジェクトが動き出すことになった。

 なぜ、ソフト研究者・開発者に支持されていた「バークレイ版」ではなく「システムV」になったのか?その理由を通産省の担当者や事務局だったIPA(情報処理振興機構)から聞いた記憶は残っていないが、シグマ計画の目標である国産UNIXマシン「Σステーション」を供給するときに、ITベンダーにとってバグ(不具合)が多いバークレイ版よりもATTが供給するシステムVの方がサポートの負担が少なく、都合が良いと考えたのかもしれない。

 ひょっとするとATTから猛烈な売り込みがあったとも考えられるが、真相は藪の中だ。判っているのはソフト研究者・開発者が望んでいなかったシステムVが採用され、岸田氏が喧嘩別れしてプロジェクトを去ったということである。

 一方で国家プロジェクトには、いろいろな思惑で多くの研究機関や民間企業が参加してくる。とくに民間企業にとっては国家プロジェクトが市場参入のチャンスとなることが多い。シグマ計画によって市場拡大が期待されていたUNIXワークステーション分野にも、立石電気(オムロン)、新日鉄、久保田鉄工などの新規参入組が次々に名乗りを上げるなか、コンピューター事業に出遅れていたソニーが動き出した。

 プロジェクトリーダーは、その後ロボット犬「AIBO」の開発者としてNHKの「プロジェクト]」にも取り上げられた土井利忠氏だった。当初はシグマ計画に便乗して事業をスタートさせる考えだったようだが、事前に岸田氏を訪ねて相談したときにシグマ計画の内情と世界のUNIX市場の動向を知る。土井氏はすぐに事業戦略を見直して、バークレイ版を搭載した低価格UNIXワークステーションの開発へと舵を切った。

 ソニーが「NEWS(ニューズ)」の名称で100万円台の低価格を実現したUNIXワークステーションを発表したのは、1986年9月のことだった。当時のUNIXワークステーションの価格は500万円以上。NEWSの登場は、シグマ計画が掲げていた目標を3年以上も前倒しして実現することになり、慌てた通産省がソニーに対してNEWS発売延期を求めたと言われるほど、業界に大きな衝撃を与えた。

 実は土井氏は、NEWSを海外ではサン・マイクロシステムズにOEM(相手先ブランドによる生産)供給することを目論んでいた。結果的に交渉は失敗に終わったが、ソニーの試作機を見て衝撃を受けたサンが小型・低価格製品の開発をスタート。ソニーのNEWSに続いて、サンも低価格マシンを投入。世界のUNIX市場は、サンとバークレイ版主導で一気に動き出し、シグマ計画はすっかり出番を失ってしまったのである。

標準化をめぐる覇権争いで日本は蚊帳の外に

 その後、UNIX市場では、サンの台頭を警戒して標準化をめぐる覇権争いが勃発する。1988年にIBMを中心にDEC、ヒューレット・パッカードなど既存勢力がUNIXの標準化を推進する団体「OSF(オープン・ソフトウェア・ファンデーション)」を発足。これに対抗して、サン・マイクロシステムズはライバル関係にあったはずのATTと提携して「UNIXインターナショナル(UI)」を設立、日本のITベンダーも両陣営へと分かれてIT業界を二分することになった。

 最後は英国でUNIXの標準化活動を行っていた民間団体「X/オープン」がOSF、UIの間に入り、90年頃からはX/オープン主導でUNIXの標準化が進んでいく。そうした流れを振り返れば、日本のシグマ計画もUNIXの標準化で世界に貢献するチャンスがあったように思える。岸田氏のアイデアを生かし、利用者主体でより良いソフト開発環境を構築するべく、UNIXそのものの研究・開発に力を入れていたならば、である。

 しかし、シグマ計画は、ITベンダーなど供給者主体で、ソフトはATTから供給されるシステムVに依存し、ハード主体で儲けようという発想から抜け出せなかった。サン互換路線で予想以上の成功を収めたソニーも、結果的にUNIX標準化や、ATTによる知的財産権の強化の流れに対応できずに、事業撤退を余儀なくされた。

 ハード主体のシグマ計画の存在意義は、ソニーがNEWSを発売した時点ですでに失われていた。しかし、その後も地方の中小ソフト産業振興策という色彩が強めながら、迷走を続けていく。役所主導のITプロジェクトは、失敗と判ってもなかなか止まらないのである。