【IT】NEC社長の故・関本忠弘氏から広告出稿停止の圧力がかかった日のこと―記事「98帝国が崩壊する日」後日談(2007-12-02)

 NEC社長を1980年から14年間務めた関本忠弘氏が11月11日に死去した。私も関本氏には何度か取材していろいろな思い出がある。とくに90年10月に日本工業新聞(現・フジサンケイビジネスアイ)に掲載した記事「98帝国が崩壊する日」では関本さんから猛烈な抗議を受け、広告出稿を全面停止するという圧力までかけられた(最後は何とか回避されたが…)。死去された方のことをどこまで書いて良いものかはいつも迷うところだが、この期を逃せば書き残す機会を逸してしまうだろう。事実関係を記録しておく。

 私がIT業界を担当したのは、新聞社に入社して1年目が終わる1985年2月から91年1月まで。最初の1年が半導体、残り5年をコンピューター担当としてIBM-富士通の著作権紛争や日米構造協議などの事案を取材した。当時はまだ駆け出し記者で、パソコンのこともほとんど判らなかったが、自宅にパソコンを3台も保有していた2年先輩の高原記者(元祖オタク記者?、産経新聞に在籍)に影響され、興味を持つようになった。


 当時のパソコン市場は、群雄割拠の黎明期を過ぎて、寡占化の時代を迎えていた。1980年にマイクロソフトが「MS−DOS」を開発し、81年に米国でIBMが「IBM PC」を発売。84年に「IBM PC/AT」を投入して、世界市場を席巻していく。日本市場ではNECがIBMに先立って79年に最初の本格的なパソコン「PC−8801」を発売。82年に「キュウハチ」の愛称で親しまれた「PC−9801」が誕生して、80年代後半には日本市場のシェア70%以上を超えるモンスター商品へと成長していた。

NECのパソコン人脈

 NECパソコンの最大の功労者は、半導体技術者としてNECに中途入社して98の生みの親となった支配人(当時)の渡辺和也氏である。もともと関本さんは通信畑出身で、パソコン事業は副会長だった故・大内淳義氏(のちに会長)、ソフト工学の権威で専務の故・水野幸男氏(のちに副社長)のもと渡辺さんが実務を仕切っていた。


 話は横道に逸れるが、NECのキーマンは大内さんだった。当時の最高権力者である故・小林宏治会長(のちに名誉会長)と関本さんの間に入ってバランスを保ってきた。パソコン業界でも大内さんが後見役的な存在で、ソフトバンクの孫正義氏やアスキーの西和彦氏も慕っていた。彼が会長就任後、病気で早々に退任したことで、関本さんを抑えられる人がいなくなったのが、NECがその後混乱する最大の要因になったと思う。


 現在、港区田町に立つ本社ビル「NECスーパータワー」は、98で稼いだ利益で建ったと言われるほどだが、98生みの親である渡辺さんはNEC本体では役員になれずにNECホームエレクトロニクスの役員となった。89年暮れだったと記憶しているが、港区白金のNECの寮で行われた記者懇親会のあと、私がタクシーに乗ろうとすると、渡辺さんが追ってきて一緒に乗り込んできた。そのときに「日本ノベルの社長で(NECを)出ることにしたよ」と、寂しそうに打ち明けられた。


 その後を引き継いだのが、のちに”ミスターパソコン”と言われたパーソナルコンピュータ販売推進本部長(当時)の高山由氏(後に専務)である。「98帝国が崩壊する日」(以下、記事)を執筆した当時は取締役支配人に就任。後任のパソコン販売推進本部長は、現・ソフトバンクモバイル副社長の富田克一氏。記事に登場してくる「T支配人」とは高山さん、「T販売本部長」とは富田さんのことである。

記事「98帝国が崩壊する日」とは?

 記事の原稿は今も私の手元にある。企画特集としてパソコン市場の将来展望を予測する記事として書いたもので、新聞1ページ分とかなり新聞記事としては長い。そのままブログに掲載すると判りやすいのだが、さすがに承諾を得ないと掲載できないので、簡単に要約を紹介する。


 記事は、近未来小説風のスタイルで、NECの役員会でコンピューター担当のK専務から、ある事業提案が行われるというストーリーが展開される。91年に基本ソフト「DOS/V」と「ウインドウズ3.0」が登場したのをきっかけに、パソコン市場でPC-98のシェアが低下。シェア50%割れも時間の問題となるなかで、役員会でIBM/AT互換パソコンを日本でも投入する決断をするかどうかの緊迫した議論が展開されるとの架空のシナリオである。


 もちろんNECにも取材して水野さんから「IBMが98互換をすることはあっても、うちがIBM互換をすることはない」との証言を得る一方で、DOS/Vとウインドウズ3.0の登場でパソコン市場が激変する可能性について業界識者の証言や、市場に表れていた変化を示すデータを、ストーリーの中にちりばめるという構成とした。


 最後に、この「Xデー」がいつ訪れる可能性があるのかを新聞読者に予想してもらう「Xデー予想クイズ」を付けた。そのクイズはこうである。
[Xデー予想クイズ]
果たしてXデーはいつか。
@二年以内(九二年まで)
A四年以内(九四年まで)
B六年以内(九六年まで)
C今世紀中(九九年まで)
D今世紀中はない
正解発表は日電次第ですが、予想を集計して発表することを考えています。

記事を書くきっかけをくれた2人の人物

 当時の私は、通常2年程度で担当業界が交代するなかで、コンピューター担当も5年目に突入して少々、マンネリ化していた。そこにコンピューター業界に精通した中村洋美さん(のちにマルチメディア総合研究所=現・MM総研所長に転出)が部長に就任。担当デスク(次長)は、逆にコンピューターには全く疎い菊地毅さんだった。


 菊地さんは、現役時代はスクープ記者ではなかった(当人も認めていた)が、デスクワークは優れている人だった。その菊地さんから「千葉、お前の原稿は難しすぎるんだ。俺にも判るように、易しく書け!」と苦言を言われるようになった。自分では気が付かなかったが、5年も同じ担当をしていると、専門的な技術の話も、そのまま業界寄りに安易に記事にしていたようだ。


 そんなときにIBMがDOS/Vの開発を進め、マイクロソフトからはウインドウズ3.0が発売されるとの情報が伝わってきた。このニュースを単に新製品紹介の記事にしても、菊地さんにニュースバリューを理解してもらうのは不可能。どうやって記事に書いたら、DOS/Vとウインドウズ3.0登場の衝撃を判ってもらえるのか?


 悩んだ末に会いに行ったのが、日本IBMのパソコン担当だった堀田一芙氏(のちに常務取締役)だった。はっきりと覚えていないのだが、堀田さんと2人で飲みにいった記憶がある。そのときにDOS/Vやウインドウズの最新情報を提供してくれた。そのあと、マイクロソフトの社長だった成毛真氏や、東芝でラップトップパソコン事業を指揮していた溝口哲也氏など多くの業界関係者への取材を通じて、DOS/Vの登場が98帝国を崩壊させる可能性は高いと考え、一気に記事を書き上げた。

関本社長の逆鱗に思わずびびる!?

 記事が掲載された日に会社にいつもどおりに出社すると、編集局の幹部が私のところに飛んできて、こう叫んだ。
「おまえは、何という記事を書いたんだ!」
 本人は全く事情が飲み込めずに、ポカンとしていると「NECから猛烈な抗議の電話がかかってきている。関本社長が憤慨して日本工業新聞への広告出稿を全面停止すると言ってきた」と言うのである。


 「何という記事を書いたんだ!」と言われても、編集会議を通って最終的に記事を掲載したのは編集幹部である。記事そのものは事実関係が間違っているとかどうかを論じるような内容でもない。一体、何が問題で、広告出稿停止という圧力をかけてくるほど関本さんが憤慨したのか?本人は全く判らぬままにNECの広報に電話すると、2つの理由を説明された。


 ひとつは、近未来小説風の体裁をとりながら、T支配人とか、T本部長とか、明らかに人物を特定できるイニシャルを使っていて「配慮に欠けている」ということ。もう、ひとつは最後に付けた「Xデー予想クイズ」というコーナーが「不真面目で、不謹慎だ」というのである。


 さすがに内心「何で?」とは思ったが、今さら「T支配人はA支配人の誤りでした」と訂正を出すわけにもいかない。その後読者から「Xデー予想クイズ」の葉書も結構、届いたが、その結果を記事に掲載するのは火に油を注ぎかねない状況だった。まだ30歳前後の駆け出し記者が、NECほどの大会社の社長から圧力をかけたれたら、びびってしまって、どうしてよいのか、お手上げ状態になるのも当然である。


 すると、NEC幹部とも太いパイプをもつ部長の中村さんが来て「高山さんとゴルフをやることになったから、お前も来い!」という。次の休みの日に箱根の方まで出掛けて、高山さんと初めてゴルフをした。高山さんは「まあ、今回のことはもう良い」と言ったまま、それ以上は何も言わなかった。結局は関本さんの怒りが収まるのをしばらく待つしかなく、私は4か月後の91年2月に日銀記者クラブに担当を替えられた。

98帝国の崩壊が現実のものに…

 なぜ、関本さんは広告出稿停止の圧力をかけるほど憤慨したのか?―記事掲載のあと日銀担当に変わるまでの間、私はそんな疑問をあちらこちらで聞いて回った。あるソフト会社の社長は、こんな解説をしてくれた。


 「あの記事はまずいよ!NECも、DOS/V登場の影響を独自に調査して、十分に対抗できるという報告が関本さんに上がっていたはず。そこに、全く正反対の可能性を示した記事が出たんだから、根拠のない記事だと関本さんは怒ったんだろう」


 この解説の真偽のほどは判らなかったが、NECにとってはかなりの打撃だったのは間違いないようだ。その後、PC-98がどのような運命を辿ったのかは詳しく追いかけてはいないが、ITメディアエンタープライズに掲載されている温故知新コラム「日本のPCの流れが変わった“DOS/Vが生まれた日”」(筆者・大河原克行氏)によると、私が日銀クラブで公定歩合引き下げの取材に明け暮れていた91年3月に、日本IBMの堀田さんがDOS/Vの普及団体「PCオープン・アーキテクチャー推進協議会(OADG)」を立ち上げた。NECと98互換機メーカーのセイコーエプソン、アップルを除くパソコンメーカーが参加したとある。


 OADGの活動が本格化して、98帝国崩壊のシナリオの現実味が帯び始めると、日本ノベル社長になった渡辺さんが「98帝国の崩壊を最初に予言したのは千葉記者だ」とあちらこちらで宣伝してくれていたらしい。朝日新聞が発行していた朝日パソコンの記者が渡辺さんの紹介で訪ねてきて、日銀クラブ近くの喫茶店で取材に応じたことがあった。もちろん当時は、関係者がすべて現役だったから、詳しい話は一切できなかった。


 その後、ウインドウズ95が登場した95年頃に別件の企画取材で、5年ぶりぐらいにマイクロソフト社長だった成毛さんを訪ねると、開口一番、こう言ってくれた。
 「全部、お前が記事に書いた通りになったな!」
 すでにウインドウズ95の登場で98の凋落は決定的となっていた。ウィキペディアによると、「97年にNEC製IBMPC/AT互換機といえるPC98-NXシリーズが発売され、98シリーズは使命を終えた」とされる。

98帝国の崩壊を関本さんも予測していたのでは?

 関本さんには、その後1回だけ、文京区にある自宅で会った。92年に経団連の副会長人事があったとき、故・平岩外四経団連会長は、関本さんよりも富士通会長の山本卓眞氏を評価していると聞いたので、日本工業新聞では事前の予想記事で次期副会長有力候補から関本さんの名前を外した。すると、NECから電話が入って「関本の名前も入れてくれ」という。


 住友グループが関本さんを次期副会長に推しているのかどうかを「確かめて来い!」と言われ、日銀担当だった私が住友銀行の最高顧問だった伊部恭之助氏などの自宅を回ったあとに関本さんの自宅を訪ねた。狭い書斎に通されて上機嫌に応対してくれたと記憶している。その後、関本さんは希望通りに経団連副会長に就任し、財界活動へと傾斜していく。


 2000年末で私が新聞社を退社するときには、元上司の中村さんがNEC専務を退任して子会社の社長となっていた高山さんを呼んで一席設けてくれた。その後、NECを完全にリタイアした高山さんとも会う機会があったが、あの記事がなぜ、あれほどまでに問題になったのかの理由を今さら聞くことはしなかった。


 記者生活では、その後も記事に関していろいろなトラブルがあった。猛烈な抗議を受けたこともあったが、関本さんのおかげ(?)で、あまりびびることはなかった。また記事の事実関係に大きな間違いがないのに、相手が猛烈に怒るときは、本当に痛いところを突かれた場合であることも判った。


 最近では、キヤノンが偽装請負問題以来、朝日新聞に対する広告出稿停止の措置を続けているらしい。「よほど痛いところを突かれた」と世間は思うだけである。