週刊ポスト(小学館)の特集記事「平成ニッポンを元気にした&停滞させた30人の経営者」のアンケートに回答した「停滞させた経営者」の名前も公開する。すでに退任していても、存命の方の名前を出すのは忍びなかったので、結果的に5人とも故人になってしまった。さらに5人とも社長時代には輝かしい業績をあげながらも、会長になったあと問題が発生して業績を停滞させる原因になった方ばかりになった。そういう意味では、経営者にとって引き際はやはり重要である。

「停滞させた経営者」は?

【磯田 一郎・住友銀行頭取(S52〜58)会長(S58〜H2)H5死去】停滞ランキング6位

攻めの銀行経営で、頭取時代は手腕が高く評価されたが、会長に就任した後も院政を敷き、「住友銀行の天皇」に。イトマン事件を引き起こし、バブル崩壊の象徴的事案に。

【飛島 斉・飛島建設社長(S22〜60、S?〜H6)H18死去】停滞ランキング圏外

創業者の3男で戦後に会社を再建。S60に長男・章に社長を譲るが、バブル期の財テク失敗で社長に再登板。H5のゼネコン汚職事件で談合のドンだった植良祐政飛島建設会長が失脚して自らも退任。H9に6400億円の債務保証免除を受けるなど「ゼネコン危機」の先駆けに。

【関本 忠弘・日本電気(NEC)社長(S55〜H6)会長(H6〜10)取相(10〜12)H19死去】停滞ランキング29位 

「中興の祖」小林宏治との確執で苦労しつつも経営を拡大したが、小林亡き後、会長として実権を握ると財界活動に傾斜。防衛庁調達の不祥事の責任を取って辞任した。

【中村 裕一・三菱自動車社長(H1〜7)会長(H7〜9)H24死去】停滞ランキング圏外

パジェロのヒットで大きく業績を伸ばしたが、会長就任後も院政を敷き、会社の隠ぺい体質が定着。H8年のセクハラ事件、H9年の総会屋事件で引責。H12年のリコール隠し事件へとつながっていく。

【秋草 直之・富士通社長(H10〜15)会長(H15〜20)取相(H20〜22)H28死去】停滞ラインキング圏外

先細りのIBM互換ビジネスから強引に事業転換を進めたが、結果が出ずに業績が悪化。「社員が働かないから」の言い訳で有名に。その後も、お家騒動が続き、業績は低迷が続いている。

バブル経済崩壊で停滞が始まった

 平成30年間で、最も印象深いのは、やはりH3年の「バブル経済崩壊」である。当時は日銀記者クラブに在籍して金融担当だったので、やはり金融業界から選ぼうと考え、結局、住友銀行の磯田さんになった。未来計画新聞でも、「ドラマ『半沢直樹』と暴力団組員への融資問題が呼び起こしたバブル崩壊直後の記憶(2013-10-08)」などで金融担当時代の話を何度か書いている。

 当然、不動産業界からも、誰かを選ばなくてはと思ったが、いわゆる土地バブル紳士と言われていた人たちの名前を挙げても、週刊ポストの読者には知られてないと思って諦めた。土地バブルの始まりは、品川の旧国鉄跡地を巡って興和不動産(現・新日鉄興和不動産)と森ビルが争った高値落札と言われるが、その後は不動産会社やゼネコンだけでなく、一般企業も含めて日本中が「総地上げ屋」状態になった。

 いわゆる「ゼネコン危機」を引き起こした建設業界からは、飛島建設の飛島斉社長の名前を挙げた。週刊ポストの一般読者は、スーパーゼネコン以外は会社名も知らないと思ったが、飛島さんは土木の名門、飛島建設のオーナー経営者である。一度は息子に社長を譲って引退したものの、息子が財テクに失敗して尻拭いのために再登板した。

 しかし、H5年に発覚したゼネコン汚職事件で、東日本の談合を仕切っていた植良会長と鹿島副社長の清山信二氏が逮捕。これを機に公共工事への一般競争入札制度の導入や不良債権処理問題などで建設業界が激動の時代へと突入していく。

 自動車業界では、三菱自動車の中村さんだろう。H14年(2002年)のリコール隠し問題に向けて、会社の歯車が徐々におかしくなり始めた時期を取材していたので強く印象に残っている。その詳しい内容は、ブログで「エピソード1:三菱自動車が20年前に作らせた自工会クラブ版カー・オブ・ザ・イヤーとは?(2016-4-21)」など3回に分けて書いているのでどうぞ。

右肩下がりで事業縮小が続くIT大手

 さて、残りの2人はIT業界から選んだ。週刊ポストの停滞ランキングでは、西田厚聰氏(3位)、西室泰三氏(5位)、佐々木則夫氏(15位)と東芝を没落させたと言われる経営者3人と、ソニーの出井伸之氏(7位)、シャープの町田勝彦氏(11位)と片山幹雄氏(25位)と、一般消費者に馴染みの家電系メーカーから選ばれていた。しかし「ニッポンを停滞させた」という意味ではICT、半導体など日本のデジタルテクノロジー分野をけん引できなかったIT企業の方が責任は重いだろう。

 私が新聞社を退社した2000年度の売上高は富士通が5兆5000億円、NECが5兆4000億円だった。それから20年近くが経過した2018年度の売上高(見込み)は、富士通が4兆円割れの3兆9000億円、NECは3兆円割れの2兆8000億円と低迷。いまでも日本を代表する大手企業ではあるが、2000年代以降のGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)や中国IT企業の急成長ぶりと対比すると、まさにニッポンの停滞ぶりを象徴している。

 NECから名前を挙げるとすれば、やはり関本さんになる。その辺のエピソードはブログ「NEC社長の故・関本忠弘氏から広告出稿停止の圧力がかかった日のこと―記事「98帝国が崩壊する日」後日談(2007-12-02)」に書いた。

小林vs関本の確執が停滞の始まり?

 関本さんは、NEC中興の祖と言われた小林宏治会長の指名で、田中忠雄氏を引き継いで1980年(昭和55年)に社長に就任。小林さんが提唱したC&C(コンピューターと通信の融合)の推進で業績を拡大したが、後年、小林さんとの確執が深まっていく。それが決定的になったのが1988年(昭和63年)に、小林さんが会長CEO(最高経営責任者)から名誉会長に退き、後任に大内淳義副会長が就任した出来事だった。

 NEC広報から緊急記者会見があるとの連絡があって三田の本社に行くと、壇上には小林さんと大内さんの2人だけが座っていて、関本さんの姿がない。すでに8年間も社長を務めていた関本さんがNECのトップと誰もが思っていたが、改めてNECの最高権力者は小林さんであることを見せつけた。

 会見当日、関本さんは取締役会を終えると東京から姿を消した。どうやら岡山市内に滞在しているとの情報を入手。滞在先を突き止めるため、ネット検索がなかった時代だったので、JR時刻表に掲載されていた岡山県のホテルリストを頼りに、宿泊料金の高い順番に電話をかけると3軒目で判明。翌朝に電話インタビューに応じてもらった。

 「小林さんにも困ったもんだ」―会見当日の夜に伺った自宅でそう語った大内さんも、体調を崩してH2年(1990年)に会長を退任し、後任には経理出身の中村兼三副会長が就任。結局、関本さんが会長になったのは、小林さんが亡くなる2年前のH6年(1994年)だった。

 その後、関本さんは財界活動に傾斜していくが、念願だった経団連会長には選ばれず、その直後に防衛庁調達の不祥事が発覚。相談役に退くも、西垣浩司社長への経営批判を展開するなど権力抗争が続いていく。こう見ていくと、やはりNEC凋落の発端は、小林vs関本から始まる社内権力抗争にあったと考えざるを得ない。

IBM互換ビジネスから脱皮できなかった富士通

 1980年代にコンピューターの巨人、米IBMと死闘を演じた富士通には、日本のIT業界をけん引する期待があっただけに、平成に入ってからの低迷振りには失望感があった。新聞社を退社した後、IT専門紙BCNで、e-Japan戦略の連載を始めることになり、10年振りにIT業界の取材に関わり始めた2001年頃から富士通の業績悪化が顕在化。その原因を探るには、1988年に決着したIBMとの知的財産権紛争から振り返る必要があると考えた。

 2002年にIBMとの知的財産権交渉の責任者だった富士通元副会長の鳴戸道郎氏を訪ねて、IBMとの知的財産権紛争について取材させてほしいと頼んだ。その時の話は、鳴戸さん自らが執筆した本「雲を掴め−富士通・IBM秘密交渉」が2007年11月に出版されたあとにブログ「雲を掴め/富士通・IBM秘密交渉を読んで―歴史的な意味をどう考えれば良いのか?(2008-03-20)」で書いた。

 実は鳴戸さんに会いに行く前に、富士通の元社長・会長だった関澤義氏と、東京・新橋の寿司屋で二人だけで会っていた。当時、関澤さんは現役の会長だったが、すでに経営の一線から退いているような雰囲気が漂っていた。

 「80年代に取材していた頃、富士通は輝いていたが、今ではすっかり元気がなくなった。その理由は何か」と尋ねてみた。

 「IBMとの最終決着のあと、合意に基づくルールのもと積極的に互換ビジネスを展開し、IBMが経営危機に陥ったあとも米アムダール、英ICL、独シーメンスなど海外ルートを通じてIBM互換製品を世界中に売りまくってきた。結局のところ、IBM互換ビジネス以外に有効なビジネスモデルを確立できなかった」

 関澤さん自身が、率直にそう話した。もちろん有効なビジネスモデルを確立できなかった責任はトップだった自分にあると思っていたのだろう。ただ、通信畑出身の関澤さんは社長就任後も、山本卓眞会長、鳴戸副会長も健在だったし、富士通の主力であるコンピューター部門から蚊帳の外に置かれていた印象があった。

日本のIT大手がゼネコン化した訳

 IBM互換ビジネスのあと、富士通は、企業や行政機関からITシステムの開発を請け負う「ITゼネコン」となっていく。建設業のゼネコン=General Contractor(総合請負業者)は、建設業法で請け負った仕事をそのまま下請け業者に発注する“丸投げ”禁止が明記されているが、ITにはそのような法的規制がなく、IT業界の重層下請け化が進んでいく。

 当時、秋草社長に会う機会があったので、ITゼネコンについて聞いてみた。

 「富士通は、いまやITゼネコンと呼ばれているとか。IT業界の重層下請け構造は、建設業界よりも酷いと言われている。なぜ、そんな情けない業界になったのか」

 「発注者がカネを払わないんだから仕方がない。大手は保証までつけて下請け業者に仕事を回しているのだから」

 業績悪化の理由を聞かれて「社員が働かないから」と言って話題となった秋草さんらしい答えだと思った。建設工事で着工前に支払う前渡金や、進ちょくに応じて支払う出来高払いのように、ITシステム開発では発注者がカネを払ってくれないとぼやいたわけだ。

 大企業の経営者にとって過去の成功体験を否定することは容易なことではないだろう。とは言え、それを引きずったままに、社長退任後も会長・名誉会長・相談役などの立場から強い影響力を及ぼすことは組織の「停滞」を招くだけ。もちろん他にも原因はあるだろうが、停滞から抜け出せない企業に共通している理由であると思うのだ。

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