TBSドラマ「半沢直樹」が大ヒットを記録して終了したのと同時に、みずほ銀行で暴力団組員への融資問題が発覚した。担当副頭取へのインタビューや頭取の謝罪記者会見はドラマの延長を見ているようだったが、私が日銀担当だった1991年2月〜93年5月の2年4か月の間に、似たような場面をさんざん見せられた記憶が甦った。当時の銀行経営は大蔵省銀行局(現・金融庁)が箸の上げ下ろしまで指導していた時代。銀行業界を取材したと言っても、結局のところ人事ばかりを追っかけていた記憶がある。まさに「半沢直樹」の世界だった。日銀担当時代の個人的な昔話など、今しか書く機会はないと思い、記録として残しておく。

銀行業界特有のムラ社会の掟に戸惑う

 2年4か月もの間、日銀担当だったにも関わらず、恥ずかしながら金融の専門知識がほとんど身に付かなかった。それが日銀担当時代の話をブログに書く機会がなかった理由でもある。バブル経済が崩壊した直後で、最も重要な金融政策であった公定歩合の操作が引き下げばかり実に6回も行われ、金融不祥事も続発。ネタはいくらでもあったのだが、全く食い込めなかったというのが正直なところだ。

 銀行業界は、かなり特殊なムラ社会だった。記者が取材して記事を書くときにも実に様々な掟(おきて)があって慣れるまでが大変だった。当時は大手銀行だけでも、都市銀行11行、長期信用銀行3行、信託銀行7行の計21行もあった。広報に取材を依頼すると頭取の時間でも結構、簡単に取ってくれたが、他の業界と違って広報が役員以上の取材には立ち会わないのには驚いた(現在もその慣習が続いているかどうかは判らないが…)。本店の受付から直接、高価な絵画がかけれている豪華な頭取応接室に通されて一対一になる。

 通常、広報に依頼して公式ルートで上場企業の社長や役員に取材する場合、その時の発言は記者会見の時の発言と同様に、記事に直接引用しても問題になることはない。大手企業の役員ともなれば、会社を代表して記者に会っているはずで、その発言に責任を持つのは当然である。

 ところが、銀行業界ではインタビュー記事として掲載することを事前に約束していない場合には、銀行と取材相手の名前を出して発言を引用しないという暗黙ルールがあったらしい(直接、言われたわけではないので…)。もし、引用する場合は「A銀行B頭取」と実名ではなく「大手銀行首脳」とぼやかして書く。要は発言者が特定できないようにしなければ何もしゃべらないという業界だった。

大手銀行の頭取が自ら記者に抗議の電話

 そんな暗黙ルールがあると前任者から聞いていなかった私は、着任早々に銀行業界の洗礼を受けた。最初に取材したのは第一勧業銀行(現・みずほ銀行)頭取の宮崎邦次氏だった。旧・第一銀行出身で、第一銀行と日本勧業銀行の合併を実現した立役者・井上薫氏(私も91年の合併20周年で単独インタビューしたことがある)の秘書役などを経て頭取にまで上り詰めたが、1997年に総会屋への利益供与事件で追及を受けて自殺した人物である。

 せっかく第一勧銀の頭取に取材できたのだから何か記事にしようと思い、宮崎さんの発言も引用してちょっとした囲み風の記事を書いた。新聞掲載の当日、記者クラブの隅の方にある自分の席で仕事をしていると、記者クラブ室の中央にいる受付女性が「千葉さん、こちらにお電話がかかっています」と呼びに来た。「直通電話もあるのに、誰だろう?」と不思議に思いながら電話口に出た。

 「宮崎に代わります」と女性の声が聞こえたと思ったら、「きみ〜、今朝の記事は何だねぇ〜」と、宮崎さんの声が聞こえてきた。「何と言われても、先日、お会いした時に聞いた話を書いただけですが…」と困惑しながら答えると、「あんな話はしていないだろう!」と語気を強めて抗議が始まった。「えっ、確かに言ってたじゃないですか…」と必死に反論してみたものの、あとは「言った」「言わない」の水掛け論に持ち込まれてしまった。

 長年、記者をやっているが、大企業のトップ本人から直接抗議を受けたのはこの時の1度だけである。電話を切ったあと、なぜ広報担当者が役員取材に立ち会わないのかが、ぼんやり判ったような気がした。いくら銀行側の人間であっても第三者である広報も聞いた発言を否定するのは難しい。しかし、一対一ならば証拠が残らないのでイザとなれば発言をなかったことにもできる。記者クラブ受付に電話をかけてきたのも、他の記者たちに私とのやり取りを聞かせたかったのだろう。

日銀総裁は総裁室の中でウォーキング?

 今でこそ1991年は、バブル経済が崩壊した年となっているが、当時は本当にバブルが沈静化したのかどうかの判断は極めて難しかった。バブル潰しのために続けてきた金融引き締めから、日銀が金融政策をいつ転換するのかが日銀担当記者としては最大の取材テーマとなっていた。

 日銀総裁はバブル潰しに力を注いできた三重野康氏。定例会見以外ではほとんど会えなかったが、懇談会の時に「健康のために最近は歩いている」という話題になった。私が「忙しくてそんな時間がありますか?」と聞くと「少し時間が空いた時に総裁室の中を歩いている」との答え。「えっ、総裁室ってそんなに広いんですか?ぜひ見たいですね」と言うと「いいよ」。しかし、その後で広報担当者が飛んできて「総裁室はセキュリティーのため関係者以外は誰もお見せしていません」と断られたのは残念だった。

 日銀の金融政策を取材する相手は、政策担当理事の福井俊彦氏(のちに日銀総裁2003〜08年)か、企画局長の小島邦夫氏(のちに日銀理事を経て経済同友会専務理事)と後任の山口泰氏(のちに日銀副総裁)だった。この時の日銀企画課長だった武藤英二氏(日銀理事から現・民間都市開発推進機構理事長)に2年ほど前に会った時には「小島さんは何もしゃべらなかっただろう。なぜ私のところに(取材に)来なかったのか(笑い)」と突っ込まれた。連日、日銀幹部と金融政策について禅問答のような取材に明け暮れている時に、とんでもない銀行不祥事が次々に起こった。

架空預金証書事件が相次いで発覚

 最初は、富士銀行(現・みずほ銀行)の赤坂支店で91年7月に発覚した架空預金証書事件だった。その後、埼玉銀行(現・埼玉りそな銀行)や東海銀行(現・三菱東京UFJ銀行)秋葉原支店でも同様の事件が発覚。8月に入ると関西の東洋信用金庫でも架空預金証書を使った融資詐欺事件が表面化した。さらに同じ時期に証券業界でも株価暴落で野村証券などで大口投資家に対する損失補てん問題が表沙汰に。まさにバブル経済崩壊の大混乱が金融・証券業界全体を覆い尽くそうとしていた。

 架空預金証書事件とは、融資の担保となるだけの銀行預金があるという架空の預金証書を発行し、その証書を担保に金融機関から融資を引き出すという詐欺事件である。とくに関西を舞台にイトマン事件や大阪の料亭女将で有名になった東洋信金事件などに、関東系の富士銀行や日本興業銀行(現・みずほ銀行)などの大手銀行が巻き込まれていった。

 大手一般紙は社会部など記者も投入して事件の全容を追っていたが、サツまわりも関西取材の経験もなかった私には、東京で取材していても実際のところ何が起きているのかが全く見えない。そんな時に大阪に本店を置く大和銀行(現・りそな銀行)の広報担当者が「取材の参考に」とB4サイズの一枚のコピーを渡してくれた。この当たりは銀行の広報担当者のなかなか手回しが良いところである。

 コピーには細かい手書きの文字で銀行など金融機関と融資先との相関図が描かれていた。どの銀行が融資先の誰と繋がっているのかが一目瞭然で判る図だ。その中にはイトマン事件の主要人物やら、大阪の料亭女将、バブル紳士と言われた不動産会社の社長、さらには大物政治家から暴力団までヤバい名前が記載されていた。「こりゃ、事実関係を調べるのは無理だなあ」と諦め気分だったが、東京駐在の経済記者としては事件が銀行経営に与える影響、とくに人事問題には首を突っ込まざるを得なかった。

誰がどう経営責任を取るのか?

 ドラマ「半沢直樹」でも、企業への融資が焦げ付いた時に誰に責任を取らせるかで丁々発止にやり取りが展開されていた。要は出世できるか、左遷されるか、まさに人事を巡る権謀術中の世界である。金融担当になった当初は、IT担当時代のように各銀行の経営戦略を取材しようとしたが、大蔵省の監督下にある銀行の経営戦略を取材してもあまり意味がないのではと思えてきた。

 では、何を取材するか―。「人事でしょう」というわけだ。他の業界でも企業の役員人事は重要ではあるが、銀行業界では人事が全てと言っても過言ではないと思えた。毎日のように金融面用の記事を書かなければならなかった私も、書くネタに困った時には人事ネタを書くと決めていた。新商品や新サービスの詰まらない話(?)を書くぐらいなら、ちょっとした人事の話を書く方が銀行業界からの反応があったからだ。

 余談だか、筆者が日銀クラブに着任して真っ先に銀行の広報担当者から聞かれたのも、出身大学と卒業年次だった。そんな情報を最初に聞いてきたのは銀行業界の他にはない。もし記者の大学の同期が自行に在籍していたらニュースソースになる可能性があるからだろう。そのような発想が出てくるのは金融業界と役所ぐらいではないか。

辞任会見1週間前、銀行トップに単独インタビュー

 金融不祥事が発覚した時も、銀行の対応としては最後は「誰がどう責任を取るのか」に行き着く。赤坂支店での架空預金証書事件では富士銀行、大阪の料亭女将に関係した不正融資事件では日本興業銀行のトップ人事に注目が集まり、筆者もこの2行のトップ人事では随分と夜回りをさせられた。

 当時の富士銀行の頭取は端田泰三氏だったが、事件が発覚する直前の91年6月に橋本徹氏(現・日本政策投資銀行社長)に交代して、端田さんは会長になっていた。私も何度か会ったが、朴とつな感じの方という印象がある。むしろ80年代のバブル期に頭取・会長だった松沢卓二氏が積極的な営業を展開し、関西地区でも強引に融資を拡大して不良債権をつくる原因になったと言われていた。

 事件発覚後、経営責任をどう取るかで端田さんへの取材攻勢が始まったが、自宅には帰っていないし、なかなか捕まらない。仕方がないので、富士銀行の広報担当者に「端田さんはどこにいるんですか?家に行っても会えないですよね」と愚痴ったら「一度正式にインタビュー依頼を出してみますか。ひょっとしたら会うと言うかもしれませんよ」と言うのでお願いした。すると、数日後に単独インタビューが実現した。

 この時のインタビューで端田さんは「今回の問題の責任は私が取る」と言い切ったことが強く印象に残っている。すぐにインタビュー記事で紙面に掲載した1週間後ぐらいに端田さんの正式な辞任の記者会見が行われた。なぜ最後に、端田さんが私のインタビューに応じてくれたのかは判らないが、逃げも隠れもしないという態度を示すとともに、じっくりと話を聞いてもらいたかったのかもしれない。

 同様に日本興業銀行では、問題の責任を取って辞任した会長の中村金夫氏の対応が実に堂々としていた。夜、記者連中が自宅に押しかけても玄関先に出てきてしっかり質問に答えていた。興銀でもバブル時の不良債権問題は、国際展開を積極的に推進した元頭取・会長の池浦喜三郎氏の負の遺産と言われ、その子飼いだった頭取の黒澤洋氏に会いに行っても雲隠れして全く会えなかった。最後は取締役にとどまっていた池浦氏を道連れ(?)に中村さんが会長を辞任して事件の幕引きが行われた。

住専問題処理はCCPC設立で先送りに

 一連の金融不祥事がようやく一段落したあとに表面化したのが、住宅金融専門会社、いわゆる住専の問題である。住専が設立された当初は、銀行が個人向けの住宅ローンを直接融資することができず、母体行と呼ばれる銀行が出資してノンバンク8社を設立して住宅ローンを提供していた。ところが、80年代に入って銀行でも個人向け住宅ローンを取り扱えるようになり、貸出先がなくなった住専各社が不動産会社に巨額の融資を行い、バブル崩壊で巨額の不良債権を抱えたのである。

 1991年11月に大蔵官僚出身の宮澤喜一氏が総理大臣に就任し、住専の不良債権問題がクローズアップされた。もし住専が破たんすれば、母体行に飛び火して銀行が破たんすることも懸念されただけに、不良債権処理を一気に進めようと宮澤首相による公的資金投入発言が飛び出した。その辺の経緯は、2007年6月に宮澤さんが亡くなった直後に書いたコラム「宮沢元首相が公的資金投入を実行できなかったのはなぜか?(2007-06-28)」で一度、書いた。

 公的資金投入が頓挫したなら、どうやって住専問題を処理するのか―。住専の母体行となっている金融機関に聞いても、最大手の日本住宅金融(日住金)の処理がどうなるかが鍵と言うばかり。今さら大蔵官僚出身で21年間も日住金社長だった庭山慶一郎氏を取材してもあまり意味がないと思って、母体行筆頭の三和銀行で、住専問題を担当していた副頭取の仁科和雄氏(のちに高島屋会長)に良く会いに行った。

 結局は92年8月に大蔵省が出した方針に基づいて民間金融機関162社が出資する共同債権買取機構(CCPC)が93年1月に設立されることになり、不良債権を塩漬けにして本格処理は先送りされることになった。のちに住専から融資を受けていた地場不動産会社の経営者から当時の話を聞くと「CCPC設立が決まってメーンバンクから債権を移すと言われた時には『これで元利金の利払いが止まって一息つける』と喜んだ」とか。もちろん、その後、本格処理が始まると銀行との熾烈なバトルが始まるのだが…。

不良債権処理の取材をゼネコン危機で再び

 93年6月に私は日銀担当を離れた。その後、自動車担当を経て96年6月に建設省担当になったが、ここで最後の不良債権処理を取材することになった。あのゼネコン危機である。97年7月の東証1部上場ゼネコン、東海興業の倒産に始まって上場ゼネコンの経営危機が次々に表面化。その後、三洋証券、山一證券、そして東海興業のメーンバンクだった北海道拓殖銀行が次々に経営破たんして、不良債権の本格処理が始まる。

 この時に役に立ったのが日銀担当時代の人脈だった。住友銀行(現・三井住友銀行)の専務だった江川正純氏は、ゼネコン危機で最も注目されていた熊谷組の副社長に、富士銀行の副頭取だった南敬介氏は東京建物の社長になっていた。それだけ産業界や企業に対して銀行が重要な役割を果たしてきたのは間違いない。いまや都市銀行も3行に統合されてメガバングが誕生したが、日本の経済発展をリードした、かつてのような存在感は発揮されているのだろうか。

 思いつくままに、長々と日銀担当時代を振り返ってみた。あの2年4か月が記者としてのキャリアにどれだけプラスになったのかは、いまでも良くは判らない。ただ、日本の金融システムの裏側を少しばかり覗くことができたことはやはり貴重な体験だったと思っている。

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