「もし東芝の社長に古賀さんがなっていたら…」―2015年4月に発覚した「不適切会計」問題から深刻な経営危機に陥った東芝のニュースを目にするたびに、そんな思いが過る。「古賀さん」とは1992年に副社長を退任した古賀正一氏のことだ。今さら名前を持ち出されるのは迷惑だろうが、筆者が尊敬していた古賀さんなら東芝を正しい道に導いたのではないかと思ってしまうのだ。歴史に“もし”はないが、東芝問題を通じて企業トップの資質について考えてみる。

記者と企業トップとの関りとは?

 84年に日本工業新聞(現・フジサンケイビジネスアイ)に入社してから30年以上に渡って、産業・経済記者として数多くの企業経営者を取材してきた。その大半は記者会見や取材インタビューで会っただけではあるが、そうした機会に経営者の考え方や人柄の一端を垣間見てきた。

 記者という立場で様々な質問をぶつけてみると、相手の反応振りで様々な発見がある。厳しい質問、予期せぬ質問に対して、どう答えるか。その時にトップの力量・度量が顕になることは多い。

 記者の質問に対して、はぐらかしたり、無視したり、時に逆ギレしたりするようでは、「トップとしては如何なものか」と思わざるを得ない。とくに大企業のトップには、嫌な質問や聞きたくない話でもきちんと耳を傾けて、しっかり対応することが求められると筆者は考えている。大企業になればなるほど、いくら優秀な経営者であっても一人ではとても様々な問題や課題を見通すことが難しくなるからだ。

記者の仕事が果たす役割とは?

 記者の仕事は、20代の駆け出しでも、40、50代のベテランでも、果たすべき役割は同じだと思っている。担当になった以上は、自分の父親よりも年上の大企業の経営者に対して、容赦なく厳しい質問もしなければならないし、批判的な記事も書かなければならない。

 「20代、30代の若造が、何を生意気なことを言っているんだ。失礼じゃないか」

 そう怒鳴りつけられても、ひるむわけにはいかない。

 「そんな若造に疑問に思われるようなことをやっているのは誰ですか。キチンと分かるように話してください。説明責任を果たしてくださいよ」

 そう言い返すぐらいでなければ、記者としては仕事にならないのだ。もちろん、いつも、いつも喧嘩を売っているわけではないが…。

東芝トップで思い出すこと

 現役記者時代に東芝の取材を担当したのは、半導体担当になった1985年から、IT担当を外れた1990年までの6年間である。当時の社長は佐波正一氏(1980〜1986年)だった。日米半導体摩擦問題で自宅まで取材に行ったときに、風呂上がりのステテコ姿で玄関まで出てきたのが印象に残っている。

 佐波さんの後継には、1986年4月に副社長の渡里杉一郎氏が昇格した。筆者としては同じ副社長の青井舒一氏の方が有力だと予想していたが、87年に子会社の東芝機械によるココム違反事件が発覚。佐波会長、渡里社長が辞任して、同年7月に青井さん(1987〜1992年)が社長に就任した。

 青井さんは、とにかく人の話をキチンと聞いて丁寧に対応してくれる方だった。エンジニアらしい実直な人柄で、目黒の近くの自宅マンションに伺っても「今、孫が遊びに来ているんで、申し訳ないけど、ここで」と言って、マンションの応接コーナーで取材に応じてくれた。そこに奥様が紅茶とお菓子を運んできてくれたのを思い出す。

古賀さんとはどんな人?

 コンピューター担当記者として最もお世話になったのが同事業を統括していた古賀さんである。東芝は、1985年に当時としては画期的なラップトップ型のIBM互換パソコンを輸出用に開発して欧米市場で成功。86年に日本でも「ダイナブック」の名称で販売を開始し、パソコン事業を大きく飛躍させた時期の事業責任者である。

 古賀さんも良く話を聞いてくれる方で、パソコン市場の動向や技術トレンドなどについてざっくばらんな意見交換をさせてもらった。当時の電機業界の企業経営者には、30前後の若造だった筆者とフランクに話をしてくれる方がいて、古賀さんのほかに富士通の関澤義社長、松下電器産業(パナソニック)の水野博之副社長が強く印象に残っている。

 ただ、東芝を取材していて不思議に感じたことがあった。青井さんや古賀さんは、記者の話も良く聞いて丁寧に対応してくれるのだが、部長以下の現場クラスを取材すると妙に官僚的で質問に対しても何も答えず、取材がやりづらかったことだ。当時から、そのギャップが気にはなっていたが、とくには困らなかったのでやり過ごしていた。

古賀さんが東芝を退社した事情

 「青井さんの後継社長は古賀さんで間違いない」

 筆者は勝手にそう思っていた。しかし、1990年だったと記憶しているが、学校法人を経営していた古賀さんの父君が亡くなられた。たまたま東芝で役員記者懇親会が行われていて「古賀さんの姿が見えないなあ」と思っていると、広報担当者が耳元で「古賀のお父様が亡くなりました。千葉さんには伝えておいてほしい、との伝言です」と小声で言った。

 学校法人はいずれ古賀さんが継ぐことが決まっていたようだ。92年までは古賀さんは東芝の副社長を務めていたが、さすがに東芝の社長と学校法人の理事長を兼務するは立場的にも難しい。1992年に青井さんから佐藤文夫氏(1992〜1996年)に社長交代したのを機に東芝を退社した。

西田氏の記者会見で覚えた違和感

 その後、電機業界の担当を離れたので東芝を取材する機会はなくなったが、フリーになってから一度だけ東芝の社長記者会見に出席したことがある。今回の「不適切会計」問題の発端と言われる西田厚聰社長(2005〜2009年)の会見だった。

 当時、記者仲間からは「西田さんは優れた経営者だ」といった話をさんざん聞かされていた。リーダーシップがあって先進的な考え方を持っているとの高い評価ばかりだったので楽しみにして出た。

しかし、正直言ってがっかりしたことを覚えている。記者の質問に丁寧に答えるという感じがなく、強引で傲慢な印象が伝わってきたからだ。「この人が、次期経団連の会長候補とはねえ…」というのが率直な感想だった。

時に耳の痛い話をするのも記者の役割?

 企業トップに求められる資質は様々で、もちろん決まったものがあるわけではない。時には強引なリーダーシップが必要な場合もあるだろうし、思い切りの良い決断が求められる場合もあるだろう。しかし、きちんと人の話を聞かず、自分のやりたいようにやる人が優れたトップであるとは思えないのである。

 記者風情が、トップの資質を語るなど片腹痛いと思われる人も多いだろうが、トップが偉くなればなるほど、社内の人間は何も言えなくなる。取引先など外部の人間も遠慮して何も言わないものだ。そうした企業トップの姿を第三者の目で冷静に見ているのは記者である。

直接の利害関係がない記者ぐらいしか、本音を言いにくいのであれば、時には耳の痛いことを言うのも記者の役割だろう。記者はそのつもりでも、どんどん偉くなっていくと記者に会いたがらなくなる経営者は結構いるのだが…。

大企業ほど経営再建は難しい

 企業の栄枯盛衰を見ていると、一朝一夕に企業が崩壊に向かっていくわけではない。樹木に例えると、最も重要な企業の文化や社風、法令順守などの根元部分が徐々に腐っていって、全体を支えられなくなって倒れていく。そこに至るまでには様々な原因と長い時間があったはずである。

 未来計画新聞では、三菱自動車の問題についても記者が見た事実を記録に残したが、東芝にも25年前から記者には「違和感」があったわけだ。企業トップが果たす役割の大きさとともに、そうしたトップを生み出す企業の文化や社風も大きく影響しているので経営再建は大変だ。それは大企業ほど難しくなる。

樹木で根元が腐っていたら、接ぎ木をするか、健康な部分だけを切り離して植え替えるか、種から新たに育てるか…。三菱自動車の場合は日産自動車に“接ぎ木”することになったが、果たして東芝はどうするのだろうか。

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