【コラム】エピソード2:自工会クラブ版カー・オブ・ザ・イヤーの情報を誰が週刊誌に漏らしたのか(2016-04-21)

 三菱自動車の日本カー・オブ・ザ・イヤー受賞をきっかけに1994年に誕生した自工会版カー・オブ・ザ・イヤーの情報が、なぜか週刊誌に漏れてしまった。その犯人が誰かは今も判らない。別に「パロディ版」の情報が漏れたところで全く困らないが、誰が、何の意図を持って情報を漏らしたのかは興味深いところだ。(元原稿執筆は2014年11月23日、東洋経済オンラインへのリンクは下記に)

東洋経済日産「セフィーロ」が獲った“幻”の特賞―20年前に起きた「事件」の真相を明かそう(2014-12-29:東洋経済オンライン)

 自工会クラブ版カー・オブ・ザ・イヤーの結果を公表する自工会クラブの納会は、1994年12月末に開催され、栄えある第1回受賞車は日産自動車の中型乗用車「セフィーロ」が選ばれた。2位は本田技研工業のミニバン「オデッセイ」、3位も日産自動車の小型乗用車「サニー」だった。残念ながら、その年の日本カー・オブ・ザ・イヤー(COTY)に選ばれた三菱自動車のスポーツクーペ「FTO」は10位以内にも入らなかった。20年前には選考結果を対外的に公表しないことになっていたが、週刊誌にも出た話だし、車名を伏せたまま当時の自動車業界の状況を説明するわけにもいかないので、ご容赦いただきたい。

円高、日米自動車貿易摩擦に苦められた自動車産業

 1994年当時の自動車業界は、円高不況の真っ只中にいた。90年から再び円高が進み、この年に為替相場は初めて1ドル=100円を突破。95年4月には瞬間的に1ドル=79円台を付けた。背景には日米自動車摩擦の激化があった。93年7月に米クリントン大統領が来日し、「日米間の新たな経済パートナーシップのための枠組みに関する共同声明」が発表され、自動車・自動車部品に関する交渉がスタートしたが、94年2年に数値目標を巡って交渉は物別れとなっていた。

 頼みの国内景気は、1990年のバブル経済崩壊で不良債権問題が表面化し、政府の景気対策と日銀の金融緩和で支えられている状況だった。四輪車新車販売台数はピークだった90年の年間777万台から94年は同654万台まで減少。円高による輸出の減少も重なって、92年にはいすゞ自動車が乗用車生産から撤退したほか、日産自動車が座間車両工場(神奈川県)の閉鎖を決めるなど、厳しいリストラを余儀なくされていた。

 国内販売では、従来のセダン・クーペに対してRV(レクリエーショナル・ビークル)人気が急速に拡大。日本メーカーでは四輪駆動オフロード車「パジェロ」人気で三菱自動車がシェアを伸ばす一方で、RVの商品ラインを持っていなかった本田技研が苦戦を強いられ、日産は80年代から続く国内シェアの低下に歯止めがかからない状況が続いていた。国内シェア40%超を10年以上維持し、圧倒的な強さを誇っていたトヨタ自動車にも変調の兆しが出始めていた。

RVで好調な三菱に対して苦戦する日産、ホンダ

 RV人気を背景にシェアを伸ばしていた三菱自動車は、発祥が三菱重工業だけにトラック・バスなどの商用車が得意。商用車がベースとなったRVでは強みを発揮したが、セダン・クーペなどの乗用車の強化がさらなるシェア拡大に向けた最大の課題だった。だからこそ「FTO」というスポーツクーペで日本カー・オブ・ザ・イヤーを獲得したかったのだろう。

 三菱自動車に抜かれて国内シェア4位に転落した本田技研は、もともと商用車を生産していなかったためRVの開発に出遅れた。90年に社長に就任した川本信彦氏が、主力の乗用車の商品ライン強化を優先していたこともあって国内では販売不振が続いていたが、94年の「オデッセイ」、95年の「CR-V」とRVでヒットを飛ばして息を吹き返しつつあった。

 最も深刻な状況にあったのが日産自動車だろう。80年代前半の激しい労使対立の影響などもあって、かつてはトヨタと並んでいた国内シェアがジリジリと下がり続け、挽回できない状況が続いていた。88年には5代目シルビアが人気を集め、初代セフィーロも歌手の井上陽水さんの「お元気ですか」というテレビCMの効果で話題となったが、昭和天皇崩御と重なってCMを自粛。92年には2代目マーチでコンパクトカーに革命を起こしたと言われるものの、反転攻勢には至らなかった。

経済記者の視点で選ばれた自工会クラブ版カー・オブ・ザ・イヤー

 自工会版カー・オブ・ザ・イヤー1994に選ばれた「セフィーロ」は、6年ぶりにフルモデルチェンジした2代目。「技術の日産」として力を注いで新開発した新型V型6気筒エンジンを最初に搭載した戦略車だった。日産では座間車両工場の閉鎖を決める一方で、新型V6エンジンのための新工場を建設。バブル崩壊で市場規模が急速に縮小したスポーツクーペに比べて、国内自動車市場に与える影響が大きいことは明らかだった。

 自工会版カー・オブ・ザ・イヤーは、選考結果を見る限り真面目に選ばれていたが、イベントはあくまでも納会の余興であり、「パロディ」版。記者の投票理由を読むと、かなり辛辣なコメントも多かった。例えば第1位のセフィーロのコメントには次のようなものがあった。 「無謀?とも思える新エンジン工場建設を決断しながらも日本カー・オブ・ザ・イヤーを逃してしまうのは勢いの差か」 さらに3位となった同じ日産のサニーにはこんなコメントが付けられていた。 「いくら性能・装備がアップしたからと言っても、割高感のある車は売れないことを見事に証明し、バブル崩壊後の自動車市場の変化を業界全体に知らしめた功績に対して」

 自工会版カー・オブ・ザ・イヤーに関する情報が外部に流出しないように結果をプリントしたものはつくらず、納会では10位までの順位を書いた大きな模造紙を張り出し、主な投票コメントは口頭で読み上げただけだった。それでも出席者からは「非常に面白かった」と口々に声をかけられた。もちろん、その場でも「あくまでも余興ですから、外部には決して口外しないでくださいよ」と強く念を押した。

ド素人が遊びで選んだと週刊誌ネタに

 COTYを逃した日産自動車としては、自工会版カー・オブ・ザ・イヤーの受賞はよほど嬉しかったのだろう。私がワープロで作成し、消しゴム製の印を捺しただけの表彰状をキチンとした額縁に入れて社長の辻義文氏(2007年死去)に届けたそうだ。この時に日産の広報担当者が辻さんにどんな説明をしたかは分からないが、大変に喜んで表彰状を社長室に飾ったと聞いた。

 ここで予想していなかった出来事が起きた。自動車業界では年末・年始にトヨタ自動車と日産自動車がそれぞれ社長会見を行うのが恒例となっていたのだが、日産自動車の社長会見の席で辻さんが自工会版カー・オブ・ザ・イヤー受賞の話を持ち出して、「自工会クラブの記者の皆さんにお礼を言いたい」と話しだしてしまったのだ。しかも「クルマの専門家ではない素人の皆さんが選んでくれた賞だから価値がある」とまで口を滑らせてしまった。

 しばらくして日刊自動車新聞を辞めてフリーの自動車評論家になったM氏が、私を訪ねてきた。用件は自工会版カー・オブ・ザ・イヤーについて話を聞きたいということだった。しばらくは自工会クラブで一緒に机を並べた仲間なので大まかな事情は説明したが、選考結果などの情報は話さなかった。

 それから程なくして、週刊新潮に自工会クラブ版カー・オブ・ザ・イヤーの記事が掲載された。「クルマのことなどロクに判らない素人の記者連中が、イヤーカー選びを行った」という批判的な記事だった。ご丁寧に自工会クラブ加盟のメディア各社にアンケート調査まで実施して、メディアの見識を問うといった内容だったと記憶している。

週刊新潮が記事を掲載した狙いは何だったのか?

 どうして、このような馬鹿げた記事を週刊新潮が掲載したのかは判らない。ただ、自工会クラブでの出来事を不愉快に感じた業界関係者がいたのも事実のようだ。少なくとも日本カー・オブ・ザ・イヤーの実行委員会のメンバーたちは、面白くなかったかもしれない。記事にすることで自工会クラブの動きを牽制しようとしたのか。真相は判らなかった。

 ただ、日本カー・オブ・ザ・イヤーの歴代受賞車を調べてみると、94年度までの15回のうち、日産自動車は86年の「パルサー・エクサ/ラングレー/リベルタ・ビラ」、88年の「シルビア」、92年の「マーチ」の計3回受賞しているが、95年度以降の20回のうちでは2011年の電気自動車「リーフ」の1回だけ。どうやら日産自動車と日本カー・オブ・ザ・イヤーとはあまり相性が良くないようだ。

 あとで自工会クラブのメンバーに週刊誌の記事の反響を聞くと、本社からはアンケート調査に関する照会があったが、事情を説明すると笑い話で全く問題にはならなかったようだ。当然、1995年暮れにも第2回の自工会クラブ版カー・オブ・ザ・イヤーを行ったのだが、この時にも、ひと悶着、騒動が持ち上がった。

つづく