【コラム】エピソード3:三菱自動車を巡って2回目の自工会クラブ版カー・オブ・ザ・イヤーも大騒動に(2016-04-21)

 三菱自動車の日本カー・オブ・ザ・イヤー受賞をきっかけに始まった自工会クラブ版カー・オブ・ザ・イヤーは2回目の1995年もひと悶着が起きた。この年の6月に三菱自動車のトップ交代が行われたが、新社長の塚原董久氏が病気でほとんど出社せず、結果的に1年で退任するという前代未聞の事態が生じたからだ。当時は原因が病気というのでメディアも詳しい状況を報道していなかったが、この社長交代にこそ、三菱自動車の企業体質の問題が如実に表れていた。(元原稿執筆は2014年11月24日、東洋経済オンラインへのリンクは下記に)

東洋経済その日、三菱自動車の社長は来なかった―「抜擢人事」の後に起きた裏面史を綴る(2014-12-31:東洋経済オンライン)

 「今年はマン・オブ・ザ・イヤーもやりましょうよ」―ある記者の一言で、1995年の自工会クラブ版カー・オブ・ザ・イヤーは再び自動車業界に物議を醸すことになった。事前に情報を聞き付けた自動車メーカーの広報担当者が私のところに飛んできて「千葉さん、マン・オブ・ザ・イヤーをやるなんて、シャレになりませんよ。何とか、中止してもらえませんか」と泣き付いてきたのである。その会社とは、三菱自動車だった。たかが年末の記者クラブ納会の余興として行うイベントにそこまで神経を尖らせた理由は何か。当時は詳しく報道されていなかったトップ交代の内情について振り返ってみよう。

予想外のトップ人事で塚原氏を抜擢

 1995年は、自動車業界にとって激動の1年だった。前年から続く日米自動車交渉が最終局面を迎えようとしていた矢先の2月、日本自動車工業会(自工会)会長だったトヨタ自動車の豊田達郎社長が病に倒れた。事実上、社長空席のままで、岩崎正視トヨタ副会長が急きょ自工会会長に就任し、豊田章一郎トヨタ会長ともに日米摩擦の収拾を当たることになった。

 5月にカンターUSTR(米通商代表部)代表が会見し、米通商法301条に基づき日本製高級車13車種の輸入に100%の関税を課すとの一方的措置の候補リストを公表。日米間で最後の攻防が展開され、6月末に辛うじて決着し、制裁は回避された。それを待って、トヨタ自動車では8月に社長交代を行い、奥田碩社長が就任。12年振りのシェア40%割れに直面していた国内販売の立て直しなどに取り組むことになった。

 業界全体を揺るがす出来事の一方で、注目されていたのが国内販売が好調な業界3位の三菱自動車の社長人事だった。当時は親会社の三菱重工業と同様に、社長交代が3期6年で行われるのが慣例となっており、89年に就任した中村裕一(ひろかず)社長の勇退が確実だったからだ。後任には、中村さんと同じ開発畑の鈴木元雄常務が昇格するとみられていた。

 そうした中で同社の社長人事をスクープしたのは日本経済新聞だった。その記事を読んで、自工会クラブの記者連中は飛び上がらんばかりに驚いた。

 「塚原董久(のぶひさ)って、誰?」

 記者クラブ内で各メディアの記者に聞いて回ったが、新社長に就任することが決まったと書かれている塚原氏に誰も会ったことがなく、どんな人物なのかも判らない。全く予想外の展開だった。

社長交代会見でとっても印象深かったこと

 スクープ記事が掲載された日に緊急記者会見が開かれたと記憶している。三菱自動車の役員は、三菱重工を真似て専務の役職がなく、社長、副社長、常務、取締役という並びだった。この時、副社長は5人、常務は9人で、塚原氏は4番目の常務で経営企画室長という役職に就いていた。

 大手企業の経営企画室長と言えば、記者から頻繁に取材を受けていそうなものだが、塚原氏はほとんど表舞台に出ていなかった。ある意味、社長交代会見で初めて華やかなスポットライトを浴びることになったのである。

 この時の社長会見で強烈に覚えていることがある。新聞ではあまり身体的な特徴を書くことはしないのだが、中村さんは身長が160センチぐらいの小柄な人だった。会見後に2人が並んで立って写真撮影が始まると、塚原さんはさらに小柄で、中村さんが堂々として見えたことだった。内心「大柄で恰幅の良い鈴木さんが隣に立ったら、印象は全く違うだろうな」と思いつつ、2人の様子を眺めていた。

社長不在でも中村会長の院政で問題なし?

 当時は、大手企業の新社長は主要なメディアに対して、すぐに単独インタビューに応じるのが一般的だった。インタビューの順番によって記事掲載時期が異なるのを避けるため、株主総会前にインタビューを行い、株主総会後に記事掲載を解禁するといった方法が取られていた。三菱自動車にも各メディアからそうした要望が殺到しただろう。

 ところが、待てど暮らせどインタビューが入らない。「株主総会が終わって、正式に社長に就任した後でないと、社長としてのインタビューには応じられない」と塚原さんが頑なに断っているというのだ。「就任後に会うとなれば、記事の掲載日に縛り(制約)は付けられないからインタビューの順番をどうするんだ」と、三菱自動車の広報担当者は各メディアから相当突き上げられていたはずである。

 しかし、そんな心配はしなくて良いことになった。塚原社長が株主総会の翌日から会社を休んでしまったからである。当初は「体調を崩して」という説明で、病気のことを記事にすることは見合わせていたが、1か月、2か月と経過。さすがに新社長が就任後に全く出社していないという異常事態が外部にも知られ始めていた。

 9月頃になって、ようやく塚原社長が出社するようになり、三菱自動車では当初は予定していなかった大規模な新社長就任パーティを都内ホテルで開催。その後に各メディアとのインタビューも順番に始まった。ところがインタビューした記者の多くが、首を傾げながら記者クラブに帰ってくる。自分の番になって、社長室に通されると、室内に大きなスクリーンが設置され、最初にパワーポイントの資料をプロジェクターで映しながらプレゼンテーションが始まったのだ。長年、経済記者をやっているが、社長就任インタビューでプレゼンするなど前代未聞である。

 新社長インタビューを通じて、自工会クラブの記者たちはこう認識したに違いない。「塚原社長は相変わらず経営企画室長のままで、中村会長が院政を敷いて三菱自動車の経営を事実上、取り仕切っている」と。この当時の三菱自動車は、誰もが中村さんの顔色を伺いながら仕事をしているというのが率直な印象だった。

会長の勲章授与式に記者を帯同?

 11月になると、三菱自動車からスウェーデン・ボルボ社と合弁でオランダに設立した「ネドカー社」の視察旅行を実施したいという話が出てきた。中村会長、塚原社長ら三菱自動車の経営陣に、自工会クラブの記者が随行して取材するというものだ。首相が海外に出かけて外交を行う時に記者団が随行するのは良くあるが、記者の交通費や滞在費は各メディアで負担している。民間企業が記者団を連れて行く場合、費用は企業持ちのことが多く、朝日や日経などはそれを嫌って特派員を直接現地に送ることもあった。

 ネドカー社は、その年の5月頃から生産を開始し、すでに現地から新工場のレポートを記事にしているメディアもあった。しかも、視察期間が12月20日前後で、記者としては年末年始用の記事を書くなど最も忙しい時期に重なっていた。さらに調べると、この時期に中村会長がオランダの女王からの勲章授与式が行われることが判った。

 「年末のこの忙しい時期に、中村さんが勲章を受けるのを見せるために記者をオランダまで連れて行くのか。記者は太鼓持ちじゃないんだから、自分は絶対に行かない」―さすがに筆者は憤慨してキッパリと断った。ところが、広告費などをエサに新聞社の営業局に根回しをしたのだろう。「千葉、オランダまで行って来い。業務命令だ」と上司に言われて、しぶしぶ成田空港から飛び立つことになった。

社長が空港に来ていません!

 その成田空港では思わぬ事件が待っていた。出発までラウンジで寛いでいると、三菱自動車の広報部長が青ざめた顔で私のところに飛んで来て、小声でこう叫んだ。

 「千葉さん、塚原が来ていません」

 「えっ、どういうこと」

 「塚原が成田空港に来ていないんです」

 その短いやり取りと慌て振りから、今回の視察に同行するはずの塚原社長が、何の連絡もせずにドタキャンしたことは明らかだった。さすがに他の記者には、体調不良で同行しないことになったと説明されたが、塚原さんが精神的にかなり追い詰められているのではないかと考えざるを得なかった。

 この後、塚原社長は一度も出社することなく、翌96年6月の株主総会で退任。一度は子会社に飛ばされていた木村雄宗・元副社長が新社長に就任することになる。

自工会クラブ版のマン・オブ・ザ・イヤーには塚原社長

 そうした様々な出来事があった1995年暮れの自工会クラブの納会でマン・オブ・ザ・イヤーをやろうと言い出したのは、産経新聞記者のHさんだった。同じ産経グループの先輩からの希望なのであまり気が進まないまま準備を始めると、冒頭に書いたように三菱自動車の広報担当者が私のところにやっていて中止を強く求めてきたのだ。

 「今回、マン・オブ・ザ・イヤーをやろうというのは、どうせ、ウチの塚原を選ぼうと言う魂胆なんでしょう。そんなことになったら、シャレになりませんよ。中止してもらうわけにはいきませんか」

 「別に塚原さんが選ばれると決まったわけじゃないでしょう。今年を振り返れば、トヨタ自動車の社長に就任した奥田さんもいるし、日米自動車交渉に尽力した岩崎さんもいますよ」

 「いや、ウチの塚原を選ぼうとしているに決まっています!」

 あまりにしつこいので「記者の皆さんにはそういう懸念があることは伝えますから」と言って、その場は収めた。

 しかし、マン・オブ・ザ・イヤーの結果はやはり塚原社長が選ばれた。開票作業を行っているのは私ひとりなので、僅差で2位だった奥田トヨタ社長と順位を入れ替えようかともチラッと頭をよぎったが、さすがに事実を曲げることはできずに、そのまま結果を納会で発表した。すると、一斉に三菱自動車の広報全員が席を蹴って、記者クラブの部屋から退場。マン・オブ・ザ・イヤーの表彰状は誰にも手渡されることなく、破棄された。ちなみに1995年の自工会クラブ版カー・オブ・ザ・イヤーの結果だが、何が受賞したのか全く記憶には残っていない。

 三菱自動車は、翌96年春に、米国子会社でのセクハラ事件が発覚したのを機に、一時の勢いが失われていく。97年には総会屋への利益供与事件で、中村会長、木村社長が引責辞任。河添克彦氏が社長に就任するものの、2000年に発覚したリコール隠し事件で引責辞任し、会社存亡の危機へと陥っていくのである。

 なお、自工会クラブ版カー・オブ・ザ・イヤーは96年7月付けで筆者が自動車担当から建設省(現・国土交通省)担当になったあと、第3回以降が行われているかは聞いていない。

(おわり)