【コラム】経済安全保障を考える(1)(2021-10-04)

 「経済安全保障」という言葉を2年ほど前から良く耳にするようになった。10月4日に発足する岸田文雄内閣は、新たに経済安保担当大臣を設置する。2020年12月に自民党は「『経済安全保障戦略策定』に向けて」を公表し、2022年の通常国会で「経済安全保障一括推進法(仮称)」の制定を目指すことを提言しており、本格的に動き出すのだろう。これからの経済政策には「経済安保」の考え方が反映され、経済記者も安全保障問題を避けては通れないことになりそうだ。では、「経済安保」をどう考えれば良いのか。かなり昔の取材経験ではあるが、日米間の知的財産問題を通じて経済安保について考えてみる。

記者生活の最初の10年間、経済摩擦紛争に明け暮れる

  安全保障問題は政治マターであり、下手な発言をして「保守だ」の「リベラルだ」の色分けされても面倒なので、極力触らないようにしてきた。これまで安全保障問題について専門的に勉強したり、取材したりした経験もなく、そういう意味では一般的な見識しか持ち合わせていない。

  しかし、国という共同体で暮らす人間として安全保障は避けては通れない問題とは認識している。あまり理解できていない領域は信頼できる専門家に任せるしかないが、自分が多少なりとも関わってきた経済分野の安全保障問題について、取材活動を通じて感じたことや考えたことが無いわけではない。

  自分にとって30年前に取材した「知的財産(Intellectual Property)」を巡る貿易摩擦は、まさに「経済戦争」だった。今から思うと、この時から経済安保問題は始まっていたと思っている。

  私が知的財産問題に関わったのは、1984年4月に日本工業新聞社に入社して2年目の85年2月に半導体担当になってからだ。直後に日米半導体摩擦が勃発し、私は「日米ハイテクウォーズ」の渦中に叩き込まれた。この当時の話は「現場記者が見た日米経済摩擦:半導体編―TPP問題を考える視点(2012-12-27)」で少し書いているので、そちらも合わせてお読みいただきたい。

211004知的所有権ノートS.jpg その後、1986年1月からコンピューター担当に異動になり、IBM-富士通のソフトウエア著作権紛争、NEC-セイコーエプソンの互換パソコン問題、GATT(関税貿易一般協定)ウルグアイラウンドの知的財産権交渉、日米構造協議のスーパーコンピューター問題、B-TRON問題など知的財産に係わる貿易摩擦の取材を一通り経験した。

  1991年2月に日銀記者クラブに異動になったが、93年7月から自動車担当となり、94年の日米自動車摩擦問題にもドップリ関わることになった。自動車摩擦のことも「現場記者が見た日米経済摩擦:自動車編―TPP問題を考える視点(2013-01-01)」で書いた。記者生活の最初の10年間はまさに「経済戦争」の最前線で取材活動していたことになる。

National SecurityとComputer Securityとの共通点

  安全保障問題を考える時に拠り所にしているのが、コンピューター担当時代に取材した「コンピューターセキュリティ(Computer Security)」だ。専門家からは「何、バカなことを…」と言われそうだが、国家安全保障も英語では「National Security」である。

  守るべき対象物を明確にし、それらの情報をキチンと管理したうえでリスクを多角的に分析し、必要な対策を適切なタイミングで講じる―。守るべき対象物が「国民の命と国土資源」か、「知的財産」かの違いで、Securityの基本的な考え方は共通していると考えている。

  1985年に日本電信電話公社(現・NTT)が民営化され、日本でも通信の自由化が始まった頃に「ハッカー」と題した雑誌が創刊された。科学技術ジャーナリストの草分け的存在だった那野比古氏(ペンネーム)が「コンピューターセキュリティ」に関する本を出し始めていた。

211004本「コンピューターセキュリティ」S.jpg  産業専門メディアである日本工業新聞では、コンピューターセキュリティ産業の現状と将来像を調べようと思い、私が企画コンテを書いて先輩記者にも手伝ってもらい、86年から週1回ペースで40回近く連載した。しばらくして中央経済社から書籍化のオファーがあり、私が1章分を加筆して1987年10月に出版された。

 日本人にセキュリティは理解できない?

  「水と安全はタダだと思っている日本人に、セキュリティは理解できない」―当時、取材していて何度も聞いたのがこのセリフだ。確かにSecurityにピッタリ当てはまる日本語はないので、「セキュリティ」という言葉をそのまま使われている。日本にはセキュリティに相当する概念そのものが根付いていなかったのかもしれない。

  さらに日本IBMのセキュリティ担当者からはこんな指摘を受けた。

 「日本では『コンピューターセキュリティ』という言葉が使われるようになったが、本来、守るべき対象物はコンピューターなどの機器ではなく、情報などの知的財産なのだから『インフォメーション(情報)セキュリティ』と言うべきだ」

  加筆した1章では、情報セキュリティ対策の考え方を自分なりの視点でまとめた。

  情報=知的財産に対するリスクを「使用不能(情報消失・アクセス不能)」「誤り」「漏洩」を3つに分け、「偶発・過失・故意」のそれぞれで発生する事象が「建物・回線・ハード設備・ソフト・媒体・人間」のどの場所で起こるかで分類した。この当時は「テロ」という言葉は使っていないが、データセンターなど建物や設備の「破壊行為」への対策、人間からの情報漏洩には「ヘッドハンティング」「人材流出」などへの対策も必要であると書いた。

  日本の国家安全保障は、軍事的な防衛(ディフェンス)問題は仮想敵国を想定して様々な議論が行われてきたが、それ以外のリスクに対して十分なセキュリティ対策が講じられてきたのだろうか。原子力発電施設へのテロ対策が講じることになったのは10年前だし、内閣官房国家安全保障局に「経済班」が設置されたのもつい最近(2020年4月)のことだ。「National Security」は、軍事だけでなく、もっと幅広に考えるべきだと経済記者ながら考えていた。

 知的財産問題への危機感が薄かった日本

  半導体貿易摩擦が始まった1985年頃に疑問だったのは、日本側に危機感があまり感じられないことだった。駆け出し記者の個人的な感想なので見当違いかもしれないが、インテルのアンドリュー・グローブ社長の来日会見から伝わってきた米国側の苛立ちと、「まさか半導体で米国が経済制裁に踏み切るはずがない」という日本側の反応のギャップがあまりに大きかったからだ。

  当時は中曽根康弘内閣(1982年11月〜87年11月)で、米国のロナルド・レーガン大統領(81年1月〜89年1月)とは「ロン・ヤス」関係と言われる信頼関係を構築し、日米安全保障体制を強化していた時代である。85年9月のプラザ合意で急激に円高が進み、日本メーカーの怒涛のような米国への半導体ダンピング輸出(第三国経由を含む)にもいずれブレーキがかかり、貿易摩擦も収束に向かうと考えていたのかもしれない。

  しかし、半導体は単なる電子部品ではなく、知的財産の塊りだ。当時から「産業のコメ」と言われていた製品であり、その製造技術はまさに最高の機密情報だった。それにも関わらず、日本政府や日本メーカーは1970年代の繊維、鉄鋼、カラーテレビなどの貿易摩擦の延長線で半導体問題を捕らえていたのではないか。

  話は脱線するが、当時、半導体工場はどのメーカーも非公開だった。その中で、ミネベア(現・ミネベアミツミ)が1984年5月に設立したNMBセミコンダクターの館山工場(千葉県)を見学したことがある。ミネベアの名物社長だった高橋高見氏が新規事業として半導体製造事業に乗り出したが、なかなか本格生産が始まらないため「事業は失敗ではないか?」とのウワサが流れ、ミネベアの株価への影響も懸念されていた。

  そのウワサを確かめるために、東京・田園調布にあった高橋氏の豪邸を直撃すると、玄関先に出てきた高橋氏に頭ごなしに怒鳴りつけられた。先輩のS記者が塀の外から負けじと怒鳴り返すと、そのまま大声で言い合いに。周り近所の迷惑になるとハラハラして見ていると、その日、主要証券会社のアナリストに館山工場を見学させたことをポロリと白状した。やはりウワサは本当で、高橋社長も神経を尖らせていたわけだ。ほどなくして記者団にも工場内部が公開された。

 知的財産戦争の時代へ

  半導体貿易摩擦を取材で、日米で取り組みの違いを感じた原因は何だったのか―。日本には、知的財産に対する明確な戦略がなかったからではないかと考えている。貿易摩擦問題も受け身、受け身の対応で、米国側に良いように「シテヤラレタ!」との印象は否めない。

  戦後一貫して、欧米に追い付こうと経済発展に力を注ぎ、最先端技術分野でも欧米に肩を並べるようになった時、次に打ち出したのが1986年4月の「前川レポート」だった。内需主導型の経済成長、国際調和のとれた産業構造への転換、金融の自由化・国際化などの国際協調路線が打ち出され、国内ではバブル経済へと突き進んでいく。

  日本にとっては、ある意味、軍事力以上に重要と言える「知的財産」という武器を強化する戦略に、米国からの圧力もあってブレーキをかけてしまったのではないか。

  当時、日米の知的財産問題について日本人記者ながら、私は米国側の肩を持つような記事を良く書いていた。「米国の圧力は不当!」と書くのは簡単だが、20年後、30年後、中国や韓国などの国々が知的財産で力を付けてきた時に、日本もいずれは米国と同じ立場に立たなければならないと考えていたからだ。将来の経済戦争に備えて、米国の圧力を上手くかわしながら、日本独自の知的財産戦略を進める必要があったのだ。

  今週はノーベル賞ウィークで、メディアでは「日本人のノーベル賞受賞なるか?」で盛り上がっている。優秀な人材を日本経済の国際競争力に生かせていないのであれば残念なことだ。日本は、10年前に中国にGDPで追い抜かれ、1人当たりのGDPでも韓国に抜かれてしまった。果たして岸田政権は、経済安保政策をどう進めようとしているのだろうか。

(つづく)

注)コンピューター担当時代の話も書き始めていますが、少々時間がかかりそうなので、まずは1回目を公開します。