【コラム】現場記者が見た日米経済摩擦:自動車編―TPP問題を考える視点(2013-01-01)

sIMG_6175.jpg 1995年に決着した日米自動車摩擦は、日本企業にとって世界最大の米国自動車市場を失うかどうかの瀬戸際の経済交渉だった。交渉決着の鍵は、94年に発足した北米自由貿易協定(NAFTA)である。交渉相手が自らつくったNAFTAルールを利用することで上手く決着に持ち込んだのが真相だ。交渉決着の1か月ほど前に、私はトヨタ自動車の渉外責任者だった張富士夫常務(現・会長)と、交渉の決着シナリオを議論していた。この時に予想した通りの展開になったことで、私は「日米自動車交渉決着へ」とのスクープをものにできたのである。張さんと私がどんな議論をしたのか。日米自動車交渉の意義を考えるうえで多少は役立つと考え、今回初めて記録に残すことにした。経済交渉では、政府の対応だけでなく、企業や産業界の戦略がいかに重要であるを示している。

「原則論を貫いた」から日米自動車交渉は決着できたのか?

 取材時に記事にできなかった話は、20年間は封印することを自分なりのルールにしてきた。日米自動車摩擦の話はまだ20年になっていないが、次の理由で書くことにする。一つは、日本経済新聞の2012年11月18日付けに掲載された「経済史を歩く27」の「日米自動車摩擦―貫いた原則論」を読むと、政府・役所側からの視点だけで歴史が語られていて、企業が果たした役割がほとんど欠落した内容になっていたこと。さらに、TPP問題を含めて日本の経済交渉が近年ほとんど進展しておらず、日本企業がグローバル市場から取り残される危惧があることだ。

 日経新聞の記事は、基本的な事実関係は正しいとは思うが、政府が原則論を貫いたことが制裁回避の決め手になったわけではないと私は考えている。「agree to disagree(不合意の合意)」と言えるような“曖昧”な決着で、なぜ経済制裁を回避できたのか。その肝心の理由が日経の記事では全く説明されていない。「政府が原則論を貫くことが経済交渉において重要である」という点ばかりが強調されることは、今後のTPP問題を議論するうえで必ずしも良いことではないだろう。

 また、一介の新聞記者がたまたま思いついたアイデアが交渉決着の一助になったとの確証があるわけではない。ただ、交渉決着から20年近くが経過しても、誰も「NAFTAルール」が持ち出された背景や狙いに言及しないので、「やっぱり自分が犯人なのかな?」と名乗り出た次第である。この記事を読んで、トヨタの張さんからお叱りを受けるかもしれないが、その時は改めて訂正させていただく。

1995年5月17日、URTRが対日制裁リストを公表

 私が自動車担当に着任したのは、1993年7月。バブル崩壊後に約2年半、日銀クラブで不良債権処理問題ばかりを取材したあとのことだ。自動車業界に来ても、前年にいすゞ自動車が乗用車生産から撤退し、直前には日産自動車の座間車両工場(神奈川県)閉鎖のニュースが飛び出すなど、急激な円高への対応で右往左往していた。

 さらに93年7月には米クリントン大統領が来日し、日米首脳で「日米間の新たな経済パートナーシップのための枠組みに関する共同声明」が提唱され、自動車・自動車部品に関する交渉がスタートした。米国の提案は@自動車部品の輸入拡大の数値目標A自動車部品現地調達率の向上B日本市場での外国車販売網の拡充などだったが、94年2年に数値目標を巡って交渉は物別れとなった。

 日本の自動車メーカーは交渉を打開するために94年3月に自主的に外国製自動車部品購入計画を公表し、5月から日米包括協議の一環で自動車交渉も再開した。9月には政府調達、保険、板ガラスなどの分野は妥結したが、自動車分野は決裂。その後、何度も交渉再開に向けた話し合いが行われるが進展せず、95年5月17日、カンターUSTR(米通商代表部)代表が会見し、米通商法301条に基づき日本製高級車13車種の輸入に100%の関税を課すとの一方的措置の候補リストを公表し、6月28日に最終決定すると発表した。

NAFTA基準を利用した交渉決着のシナリオを予想

 カンター会見から最終決定までの6週間、かなりの数の記者が日米自動車交渉の取材に奔走したはずで、私も自動車担当として走り回った記者の一人だ。交渉の焦点は、日本の自動車メーカーが自主的に公表したボランタリープランに、米国製自動車部品購入の数値目標を書き込むかどうかに絞られていた。私も、トヨタ、日産、ホンダなどの首脳や渉外担当役員に随分と夜回りをかけてみたが、ほとんど収穫は得られなかった。

 米国側は「数値目標を出さなければ制裁だ!」と息巻いているし、日本側も「数値目標は絶対に出さない!」と一歩も引かない。このままでは交渉決裂で制裁発動も避けられない。「どうやったら日米が合意できるだろうか?」と自分なりに考えていた時に、突然、NAFTAルールを利用するというアイデアが閃いたのである。

 過去に日米半導体協議、コンピューター担当時代には知的財産権問題や日米構造協議などの取材を通じて、GATT(関税および貿易に関する一般協定)ウルグアイラウンドなどの動向をウォッチしていた。その流れでNAFTAや1995年に発足したWTO(世界貿易機構)に関する基礎知識を調べていて、NAFTAには部品の大半を輸入して域内で組み立てる現地組立車と、部品も含めて生産する現地生産車を区別するために現地部品調達比率を定めた「NAFTA基準」が設定されたことを知っていたのである。

 NAFTA基準は、日本メーカーへの制裁を目的に定められたわけではなく、欧州メーカーや韓国メーカーにも平等に適用される共通ルールで、達成目標が段階的に引き上げる内容となっていた。過去の日米経済摩擦の取材で、日米の二国間交渉では米国の圧力に煮え湯を飲まされる場面を見てきただけに、二国間ではない多国間のルールに引きずり込む必要性を痛感していた。

 もしNAFTA基準が日本メーカーにとって達成が難しい目標でないのであれば、米国が要求する金額ベースの数値目標の代わりに「NAFTA基準を達成する」と表明することで交渉打開の道が開けるのではないか?そう考えたのである。

交渉妥結に強い決意を示したトヨタ幹部

 まずトヨタ広報部長の神尾隆氏にNAFTAルールを利用するアイデアを聞いてもらった。神尾さんは、トヨタ中興の祖である豊田英二最高顧問の懐刀と言われた故・神尾秀雄氏(トヨタ元副社長、当時は千代田火災海上保険会長)の甥で、のちにトヨタ専務を経て、豊田一族の資産管理会社である東和不動産社長を務めた人物である。当時からトヨタのスポークスマンの役割を果たしていた。

 「神尾さん、このままでは交渉は決裂してしまうんじゃないですかねえ」
 「通産省は絶対に数値目標は出さないと言っているし、そうなるかもしれんな…」
 「交渉が決裂すれば、米国市場で日本メーカーは高級車は売れなくなりますよ。トヨタはそれでいいんですか?」
 「それは絶対に困る!」
 最初に私はトヨタが交渉決着に強い決意を持っていることを確認したかった。その言葉を聞いて、こう切り出した。

 「神尾さん、NAFTA基準ってありますよね。すでに日本メーカーは、ボランタリープランで北米での現地生産台数計画を公表しているのですから、それにNAFTA基準の現地部品調達率をかければ自動的に部品購入金額が出てくるんじゃないですか?日本側はNAFTA基準を尊重すると言っただけで、数値目標を出したわけではない。あとは米国に勝手に金額を計算してもらって数値目標を勝ち取ったことにしてもらう。どちらのメンツも立てて、交渉を決着するにはこの方法しかないと思うのですが…」
 神尾さんは黙って私の話を聞いていた。

「張さん、NAFTA基準ってありますよね」

 神尾さんと話をした数日後、トヨタの記者会見があった。何の会見だったかは覚えていないが、日米自動車交渉とは関係ない新車発表か何かだったと思う。そこに広報担当役員の張さんも出席していた。会見が終わると、数人の記者が張さんを取り巻いて囲み取材が始まった。その場で私は思い切って張さんにNAFTA基準の話をぶつけてみた。

 「張さん、NAFTAに現地部品調達比率の基準がありますよね」と切り出して、神尾さんに話をした決着シナリオの可能性を質問してみた。
 「君、そうは言ってもなあ」と思いがけない質問に、張さんはかなり驚いた様子だった。
 「じゃあ、米国での現地生産を拡大するのにトヨタはNAFTA基準は守るつもりはないというのですか?」
 「そう言っているわけじゃないだろう」
 「そうであれば、NAFTA基準を守るって言えばいいじゃないですか」
 「うーん」と張さんは唸って議論は打ち切りになり、何ら手応えを得ることはできなかった。

 その数日後、再び神尾さんに会った時に、張さんにもNAFTA基準の話をしたことを伝えた。「神尾さん、日米自動車交渉を決着するには、このシナリオ以外は考えられないように思うんですけどねえ」と未練がましく顔色を見た。その時も、神尾さんは黙って私の話を聞いているだけだった。

日米交渉の決着を確信した日の出来事

 最終期限が2週間後に迫った6月中旬頃、自動車担当デスクだった小林隆太郎さん(産経新聞編集委員)から無理難題を突き付けられた。「もう1か月近く取材してるんだから、そろそろ何か書けよ。月曜日(6月19日)付けの1面トップを空けておくから」と言われて、ハタと困った。その後もトヨタを中心に夜回りなどの取材を行ってきたが、何ら決着につながる情報は得られていなかったからだ。

 日本工業新聞は土日が休刊で土曜日の午前中までには出稿できるかどうかのメドを付けなければならない。6月16日(金)に最後の望みで張さんに会おうと都内にあるトヨタの寮に夜回りをかけたが不在だった。せっかく来たのだから神尾さんに会ってから帰社しようと思って訪ねると、神尾さんは帰っていた。

 寮の応接室に通されると、神尾さんは冷蔵庫を開けて200mlの缶ビールを2本取り出してテーブルの上に置いた。缶ビールを開けて少し喉を潤してから「神尾さん、日米交渉は本当にまとまるんですかねえ」とほとほと困り果てて思わずグチった。すると、神尾さんが「千葉ちゃん、こんな決着のシナリオもあるんじゃないかなあ」と独り言のように話し出したのである。

 「NAFTA基準っていうのがあるだろう」―そう言うと、これまで2度、私が神尾さんに話をした決着シナリオをオウム返しのように話し出したのである。
 「神尾さん、それって僕が神尾さんに話してたことじゃないですか」
 笑いながらそう言って神尾さんの顔を見た時、私はハッと息を飲んだ。そして、神尾さんの顔をじっと見ながら、緊張のあまり自分の心臓の音が聴こえるほどだった。
 「予想した通りのシナリオで日米交渉は決着へと進み出したんだ」―そう私は確信した。

甦った日米半導体摩擦での苦い経験

 神尾さんとの取材のやりとりだけで、私は19日付の一面トップの記事を書いた。本来なら実際に交渉を行っている通産省やUSTRなどの日米当局に裏取りを行ってから記事を書くべきところではある。しかし、日米半導体交渉の時の苦い経験(12月27日付コラム参照)から、事実確認したところで通産省は100%否定するだろうと思ったからだ。

 案の定、日本の新聞社は翌日付けで私の記事をどこも後追いしなかった。通産省などに事実確認しても否定されたのだろう。しかし、19日の午前中に「米国の新聞社からは私の記事を転載したいとの電話がかかってきた」と外信部長から連絡があった。それを聞いて、私は記事に対する自信を一層、深めた。米国の新聞社なら米政府関係者に事実確認を行ったはずで、米国側もNAFTA基準に基づくシナリオで交渉決着に同意したと考えたからだ。

 さらに21日付の朝刊では朝日新聞が日本メーカーのボランタリープランの内容を報じた。もう、この段階では日米交渉はトヨタが描いたシナリオ通りの決着に向けた環境が整っていたと私は考えている。

 ちなみに95年11月に発刊された日本経済新聞編の「ドキュメント日米自動車協議―「勝利なき戦い」の実像」の146ページには、私が報じた記事を含めて新聞報道の生々しい当時の様子を次のように書いている。さすがに具体的な新聞の名前は伏せているが…。

 「いずれにしろジュネーブでの次官級協議(日本時間6月22日)を控え、トヨタは「いつまでも橋本通産相を激励するばかりでよいのか。内閣改造で通産省が変わったら、交渉はどうなる」と不安を募らせた。トヨタの自主計画「グリーバル・ビジョン」の一部が新聞報道(注・日本工業新聞)で明らかになった6月19日、トヨタは通産幹部から「情報管理の徹底」をきつく求められ、マスコミの取材攻勢に対しても一層口を閉ざすようになった。」 

 「95年6月21日朝、大手自動車メーカー社長のもとに一本の電話がかかってきた。「こんあことのないように気を付けてください」。電話の主は通産相機械情報産業局の若手幹部。ジュネーブでの次官級交渉を目前にして、通産省が事前に大手5社に策定を要請していた個別自主計画「グローバル・ビジョン」に関する報道が目立ち始め、その日もそうした記事(注・朝日新聞)が紙面を飾っていた。通産省は「米国を強気にさせる」と、情報漏えいにピリピリ。各社首脳に電話などで念入りにクギを刺し、社内にかん口令を敷かせた。」

日米自動車交渉は本当にきわどい合意だったのか?

 日本経済新聞社の「ドキュメント日米自動車協議」では、6月22日から始まったジュネーブで最終交渉で数値目標を巡って対立が続いたと書いている。2012年11月18日付の日本経済新聞の記事「経済史を歩く―日米自動車摩擦」では、「きわどい合意」とか、「決着は数時間前」といった見出しが並ぶ。カンターUSTR代表が橋本龍太郎通産相の喉元に竹刀を突き付ける、あの有名な写真も掲載されていた。

 しかし、本当にギリギリの交渉であったなら、テレビ向けみたいな派手なパフォーマンスを行って写真に撮らせたりしただろうか。とっくに交渉の落としどころは決まっていて、最後の決着を劇的に見せるための手の込んだ演出と考える方が納得が行く。

 昨年11月の日経の記事では、米国側が自動車部品の購入額を「勝手に計算した」とだけ書いていて、NAFTA基準のことは一切触れていない。計算根拠がないままに片方が勝手に数値を出して政府間交渉が合意に達することなど常識的に考えてもありえないことである。明らかに交渉決着は通産省の粘り強い対決姿勢によって勝ち取った手柄であるかのような書きぶりである。

半導体と自動車―その違いの原因はどこにあったのか?

 日米自動車交渉が決着した後、日本メーカー各社はNAFTA域内での現地生産を積極的に拡大し、トヨタはグローバル戦略を加速させていく。日本車の米国市場での販売シェアは右肩上がりで増え続けた。トヨタは2010年には、ついに米GMを抜いて自動車生産台数で世界トップとなり、2012年も2年振りにトップに返り咲く見通しだ。95年の日米自動車交渉で、世界最大の米国市場でのシェアを失うことなく、現地生産を加速できたことが世界ナンバーワンの実現につながったのかもしれない。

 自動車交渉決着後、米国側は部品購入状況をモニタリングすると表明していたが、結果的に自動車分野で日米経済摩擦が再燃することはなかった。1986年の日米半導体協定の締結後も摩擦を繰り返し、5年の期限切れ後の1991年に再び外国製半導体の日本市場アクセス拡大と日本製半導体のダンピング(不当廉売)輸出防止を取り決めた新協定を結ばざるを得なかった半導体分野とは対照的だ。

 自動車と半導体の違いは、1995年のWTO発足によって経済摩擦の抑止力が働くようになったとも言えるが、NAFTAという多国間によるルールを適用したことで一方的な米国側の圧力に歯止めがかかったのではないだろうか。さらに交渉決着の落としどころが米国から無理に押し付けられたものではなく、日本メーカーが達成可能であると判断したものを日本側から提案して合意に持ち込んだことも大きな意味があるだろう。

 日米自動車交渉で、日本政府や通産省が数値目標は絶対に出さないとの「原則論」に固執して決裂していたなら、その後の日本の自動車産業、さらに日本経済はどうなっていただろうか。やはり経済交渉で大事なのは「原則論」ではなく、日本国民が食っていくために必要な経済規模を維持していくための国家戦略である。

 あれから20年近くが過ぎ、米国の策略だとか、特定産業の保護だとか、そんな学者や官僚の理屈ばかり並べて経済交渉のテーブルにも付こうとしない日本政府の現状をどう考えれば良いのか。いくら「経済成長の実現」を叫んだところで、新しい市場や需要を獲得しようという企業や国民の努力なしに実現できるはずはない。急速な高齢化、人口減少が進む日本が、低成長経済、縮小経済を選ぶのなら話は別だが…。
(つづく)