【コラム】現場記者が見た日米経済摩擦:半導体編―TPP問題を考える視点(2012-12-27)

 2012年を振り返ると、脱デフレに向けて金融緩和政策の議論は盛り上がったが、肝心の「需要不足にどう対応するか」の議論は低調なままだった。急激な人口減少時代に突入するなか、日本経済は一時的な公共事業や円高是正だけで復活できる状況ではないだろう。TPP(環太平洋経済協力協定)への参加も新たな市場獲得戦略として検討されてきたはずが、交渉する前から損得計算ばかりで議論が深まらない。新たに発足した自公政権が大胆な金融緩和を行い、国内投資を促進して経済成長をめざすのなら、当然、需要不足に手を打つ必要がある。過去の日米経済摩擦とTPPでは違うという意見もあるが、平和的な話し合いで市場のルールを決めるのが経済交渉であるはず。重要なのはグローバルな市場戦略をどう描くかだ。改めて現場記者が見た日米経済摩擦を記録に残しておく。
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日米経済摩擦で日本企業はどう動いたか?

 歴史とは時間とともにつくられていく。出来事の全てを目撃している人間はいないし、その出来事の当事者が客観的に全ての事実を明らかにするとは限らない。不都合な事実は隠されて、結果的に真実が明らかにされていないままに歴史がつくられていくことも少なくないだろう。

 新聞記者一人が取材できる範囲は限られる。起こった出来事を全て知ることは不可能だし、目撃した出来事もある一面だけを捕えた断片的な情報であるのも確かだ。しかし、それらの情報をできるだけ多く集めて繋ぎ合わせることで歴史の全体像が浮かび上がってくる。断片的な情報をどう解釈するかは研究者や歴史家に委ねるとして、記者は時代の目撃者として出来るだけ多くの情報を書き残すだけである。

 日米経済摩擦問題は、新聞や雑誌などでも過去に何度も検証されており、本も出版されている。それらの多くは交渉当事者である外務省や経済産業省(旧通商産業省)の官僚や政治家から得た情報に基づいて書かれているように思う。私自身は、外務省、通産省、永田町の記者クラブに所属して直接、交渉担当者を取材していたわけではない。

 ただ、経済摩擦の当事者は、政府や役所ではなく、企業や産業界であるはずである。経済交渉によって市場環境が大きく左右される企業や産業界が何を考え、どう動いたのか。政府間交渉の攻防ばかりにスポットが当てれて、民間側の情報はあまり残されていない。そうした観点から、現場記者が見た日米経済摩擦の記録を残す意味もあるだろう。

米インテル社長の警告を無視した日本

 日米経済摩擦問題に関わるようになったのは、日本工業新聞の入社1年目の1985年2月に半導体担当になってからだ。入社後2か月の新人研修を受けたあとに配属されたのが電機・情報グループの受動電子部品担当。アルプス電気、ミツミ電機、TDK、太陽誘電などの電子部品メーカーを8か月取材したあと、当時、日本企業が世界市場を席巻しつつあった半導体業界の担当に抜擢された。

 発端は、着任早々に出席した米インテルのアンドリュー・グローブ社長の来日記者会見だった。同氏はインテルを世界的な大企業に育てた伝説的な経営者である。85年春に日本法人のつくば本社で行われた会見で、グローブ氏は強い調子で「日本メーカーが洪水のような半導体輸出を続ければダンピング(不当廉売)提訴に踏み切ることになるだろう」と警告したのである。直感的に「これは大変なことになる」と緊張が走った。

 ところが、日本側の反応は驚くほど鈍かった。「日本メーカーがダンピング輸出している事実はない」と主張する一方で、「米コンピューターメーカーでも日本製半導体を大量に使用しており、ダンピング提訴して困るのは米国の方だろう。半導体で貿易摩擦に発展することなどあり得ない」と、日本メーカーも通産省も口を揃えてそう言うばかり。過去に繊維や鉄鋼などで日米貿易摩擦を経験している通産省の官僚に言われれば、経験の浅い駆け出し記者は引き下がるしかなかった。

米マイクロン日本市場撤退、そして摩擦勃発へ

 日本側の予想に反して半導体(主にDRAM)市場を取り巻く環境は厳しさを増していく。ちょうどDRAM市場では、64キロビット製品から256キロビット製品へと切り替わり、量産効果で価格も急速に下がっていた。これに伴って、256キロビット製品への量産に出遅れた米メーカーの経営が急速に悪化していたからだ。

 ある日、米マイクロン・テクノロジーの日本法人副社長から電話があった。当時、マイクロンは新興のDRAMメーカーで、米国にとっては日本勢に対抗する期待の企業だった。

 「どうしたんですか?」と尋ねると「いま、日経新聞のS記者がオフィスに押しかけてきてね。見られてしまったんだよ」
「えっ、何を?」
「オフィスが空っぽなところを…」
 思わず絶句した。
「でも、なぜ、僕に電話してくれたんですか?」
「何かあったら、電話してほしいと君に頼まれていただろう」

 『米マイクロン、日本市場から撤退』―日経さんには申し訳なかったが、翌日付の一面で、日経新聞と日本工業新聞の2紙がこのニュースを報じた。85年には、インテルがDRAM生産から撤退したほか、老舗DRAMメーカーの米モステックも仏トムソンに売却された。世界のDRAM市場を日本勢が完全に支配しようとしていた。そしてグローブ社長の会見から3か月後の85年6月、米国半導体工業会(SIA)は、米通商法301条に基づき提訴に踏み切った。

外国製半導体を東京湾に捨てる?

 米国側の要求は、日本製半導体のダンピング輸出停止と外国製半導体の輸入拡大だった。これに対して、日本側はダンピング輸出を行っている事実はなく、日本市場への参入障壁もないとの主張を繰り返していた。日本市場で外国製半導体のシェアが伸びないのは市場競争力の問題というわけである。「なぜ、無理に外国製半導体を買わなければならないんだ。買っても使い道がなければ東京湾にでも捨てるか…」と、今から思えば傲慢といえる発言も聞かれたほどだ。

 85年8月から政府間で日米半導体協議がスタートした。交渉は約1年間に渡って続き、翌86年9月に日本側が外国製半導体の市場参入機会の拡大(数値目標の設定)とダンピング輸出のためのモニタリングを行うことで合意。その後もフォローアップ協議が続き、日米間で半導体市場を巡って話し合いによる市場調整が続けられたのである。

 問題は、日本メーカー側の対応である。もしダンピング輸出が認定されてしまえば、世界最大の米国半導体市場でシェアを大きく失うことになりかねない。何らかの対策を練る必要があるし、日米関係の政治的配慮から譲歩を迫られるにしても、最小限に食い止める方策を考えるのが当然だろう。しかし、私が取材した限り、企業が積極的に動いて交渉を有利に進めるように政府に働きかけていたようには思えなかった。

半導体の輸出価格の引き上げを通産省が指示?

 日米半導体協議では、開始当初から米国側が日本メーカーのDRAMの輸出価格を政府がコントロールすることを要求。これに対して日本側は民間取引に政府が関与することはできないとして拒否し、双方の主張は平行線をたどっていた。しかし、交渉が始まって間もない時期(85年秋)に取材先の半導体商社の役員から驚く話を聞いた。

 「通産省からの指示でDRAMの輸出価格を上げろ!とメーカーから言われている」
 「えっ、本当ですか。通産省は民間取引に関与することはできないと言っているじゃないですか」
 「とにかく通産省の指示だと言うんだ。急に値上げしろ!と言われてもねえ」と困惑しきっていた。
 別の半導体商社の役員にも話を聞いたが、同様の指示が来ていると証言した。
 「なんだ、通産省は、国内向けには強気のポーズを取りながら、早くも腰砕けじゃないか」と、正直なところ私はそう思った。

 メーカーにも確認しようと、NECの半導体部門の責任者だった松村富廣専務(のちにトーキン会長)にインタビューした。
 「通産省の指示で半導体商社に言って輸出価格を引き上げたそうですね」
 松村さんは一瞬言葉を飲み込んだあと「私の口からは答えられない」と言っただけだった。

通産省高官からの電話で輪転機が止まる

 最後に、通産省で半導体分野を担当していた機械情報産業局電子政策課の新欣樹課長(96年に中小企業庁長官で退官)にも会いに行った。通産省が値上げを指示したのかどうかを聞いたが、新さんも押し黙ったまま何も答えなかった。「官僚がNO!と答えなければYESだ」との先輩記者の助言を鵜呑み(?)にして半導体商社の役員の話をそのまま記事にして出稿すると、一面トップに掲載することが決まった。

 朝刊のゲラが出て輪転機が廻る直前になって、編集局長のところに若杉和夫通商産業審議官から電話がかかってきた。私は直接電話に出てはいないが、通産省が半導体の輸出価格の引き上げを指示した事実はないというのである。通産省記者クラブ詰めのベテラン記者が駆け出し記者の記事は危なっかしいとばかりに、ゲラを若杉さんのところに持ち込んだのだろう。結局、局長の判断で記事は差し替えになった。

 今でも自分が書いた記事は間違っていなかったとは思っているが、その真偽は分からない。交渉がこれから本番という86年1月には半導体担当を外され、コンピューター担当に異動になった。わずか1年弱の取材だったが、日米半導体交渉において日本の半導体業界が当事者能力を発揮しているようには見えなかった。通産省の指示通りに動いていただけで、結局は米国側の策略に陥って市場シェアを失っていくことになったのではないだろうか。

日本の半導体産業がダメになった本当の原因は何か?

 日米半導体摩擦から25年以上が経過した2012年、日本最後のDRAMメーカーとなっていたエルピーダメモリが、一度はスゴスゴと日本市場から撤退した米マイクロンに買収された。日本が世界を制したDRAM市場から撤退が決まった瞬間だった。そして、年末には業績不振に陥ったルネサスエレクトロニクスも政府系ファンドの産業革新機構に買収され、役所主導で再建されることが決まった。

 「日本の半導体メーカーがダメになった理由は、最先端技術への投資が不十分だっただけのこと。20年間もそうした状況が続けば当然の結果だ」―80年代に米インテルの生産効率改革に大きく貢献した半導体製造技術の世界的権威である東北大学名誉教授の大見忠弘氏はそう切って捨てる。
 「無敵のじゃんけんロボット」などの開発で知られる東京大学大学院情報理工学系研究科創造情報学専攻教授の石川正俊氏も「日本企業の経営者は最先端技術に対する経営判断のスピードが遅い」と指摘する。

 日本の半導体産業が飛躍するきっかけとなったのが、1976年に通産省主導で始まった国家プロジェクト「超LSI技術研究組合」だった。その成果を武器に一時は世界の半導体市場に制圧したもの、日米半導体摩擦を経て、再編・統合を繰り返しながら、日本の半導体メーカーは衰退の一途を辿ってきた。その歴史を振り返ると、日本の半導体産業は最後まで役所主導から脱却できなかった。「マーケットは企業自らの力で切り拓くもの」―それを実感したのは1995年の日米自動車交渉だった。
(つづく)