トヨタ自動車が、世界規模の景気後退による販売不振と急激な円高に喘いでいる。2009年3月期の営業利益は前期比7割減に落ち込むとの発表があった。これほどの苦境に陥ったのは、豊田章一郎名誉会長の実弟である豊田達郎社長(当時)の病気不在、交渉決裂寸前まで追い込まれた日米自動車摩擦、82年以来13年ぶりに国内シェア40%割れが重なった1995年以来のことだろう。この年の8月、奥田碩氏が社長に就任し、トヨタは危機を乗り越えて、真のグローバル企業へと飛躍していく。トヨタは今度の危機をどう乗り越えるだろうか?
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トヨタ関連の記事を書くのを控えていた理由

 自動車担当だった頃の話は、これまで書くことを控えていた。当時の広報担当常務だった張富士夫さんもまだ会長に残っているし、いろいろ書くと差し障りがあるかもしれないと思っていたからである。自動車担当を離れたあとは、あまり自動車業界を取材していないこともあり、現場を離れた人間がいろいろと論評することも遠慮していた。

 しかし、担当を離れて10年が過ぎた頃から、必要に迫られてトヨタに取材を依頼しても無視されることが増えた。昔から対応が尊大な会社だったが、ここ1、2年は取材を依頼しても返事すら戻ってこない。「世界の大企業になり、世界中から取材依頼が殺到して広報も忙しいのだろう」というぐらいに考えていた。

 無理をしなかった理由には、好調なトヨタを取材しても褒める記事を書かされるだけで、あまり面白くないと思っていたこともある。現役記者時代にも「ウチの良い記事をほとんど書いてくれませんねえ」とトヨタの広報が言うので、「僕みたいなチンピラ(?)記者にトヨタほどの大会社が褒められたいの?」と皮肉ったら、文句を言わなくなった。トヨタの記事を書かなくなったのは、業績が良すぎて書きたいテーマが見当たらなかったというのが正直なところだ。

 そんなトヨタ自動車が久々に危機に直面している。こういう時こそ、記者はガンガン書いてプレッシャーをかけるべきだ。結果的にそれがトヨタにとっても良いはずで、現役担当記者の奮闘を大いに期待したい。私も、7日付け新聞1面の「トヨタ73%減益予想」との見出しを見て、久々にトヨタのことを書こうと思ったぐらいだから、これからどんな記事が出てくるかが楽しみである。

95年、トヨタに次々と難題が降りかかった

 企業が危機に直面したとき、やはり重要なのは経営トップのリーダーシップだろう。トップの手腕次第で、組織の士気が高まって復活を果たすこともあるし、対応が後手後手に回れば事態を悪化させることにもなる。

 トヨタにとって難題が次々に降りかかった95年は、年明け早々に、豊田達郎社長が東京・大手町の経団連会館で倒れ、事実上、社長が空席状態に陥った。米クリントン政権によって日本の自動車メーカーへの圧力が強まるなか、日本自動車工業会(自工会)会長だった達郎社長の心労が溜まっていたのかもしれない。緊急事態に陥ったトヨタは日産自動車社長の辻義文さんに自工会会長を依頼するも断られ、トヨタ副会長の岩崎正視さんに自工会会長を引き継がせ、章一郎会長とともに日米自動車摩擦の対応に追われた。

 当時、印象に残っているのが、トップ不在がトヨタほどの企業にもいかに大きな影響を及ぼすかである。自動車業界では、主要な新型車の発売記者会見には必ず社長が出席する。達郎社長が不在になって、トヨタでは副社長をずらりと壇上に並べて会見を行うことにしたのだが、いつもとはやはり雰囲気が違う。今ひとつ締りがないのだ。

 そんな会見が2回ほど続いて、ある新型車の記者会見に出席すると、雰囲気がガラリと変わっていた。壇上に座っている副社長の表情にただならぬ緊張感が漂っている。ふと、会場の後ろを見ると、片隅にポツリと椅子に座っている豊田英二最高顧問の姿があった。いつもは名古屋の会見にしか出席しない英二さんが、クラウンとカローラのフルモデルチェンジの記者会見の時だけは東京に出てきていたのだ。

 英二さんは「世界のトヨタ」の礎を築いた偉大な経営者で、当時すでに80歳を超えていたが、毎日の自動車販売台数データをまとめた日報をいつも持ち歩いて、トヨタの経営に目を光らせていた。「さすが人事権に影響のある人がいると違うもんだ」と会見を聞きながら感心させられたものである。

国内販売シェア40%割れの危機

 社長不在と日米自動車摩擦への対応という2つの課題を背負ったトヨタに、さらに由々しき問題が浮上してきた。国内販売シェアが13年振りに40%を割り込むことが確実な情勢になったのである。その経緯は、6年前に建設業向けウェブサイトに、一度コラムとして書いたことがある。経営トップのリーダーシップの重要性を示す事例として書いたので、少々持ち上げすぎのところがあるが、関連記事としてMKSアーカイブに収録したのでお読みいただきたい。

 その時のコラムには書かなかったが、シェア40%割れが迫るなかで、95年秋にトヨタが自動車販売台数の水増し登録を行っていることが発覚した。日本経済新聞の若い女性担当記者のスクープ記事だった。自工会の定例会見に出てきた奥田さんはさすがに歯切れが悪く、正直、がっかりしたのを覚えているが、のらりくらりとかわして切り抜けてしまった。

 ちなみに、その13年前の1982年も、トヨタにとって大きな転機となる年だった。1950年の経営危機で分割していたトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売を再び合併して、章一郎さんが社長に就任した年である。さらに日米貿易摩擦が深刻化するなか、「巨人の握手」と言われたトヨタと米GM(ゼネラル・モータース)の提携が実現したのもこの頃だ。84年には米国のトヨタ・GM合弁会社NUMMIで、トヨタの海外現地生産がスタートする。

82年、95年、2008年―13年ごとに、トヨタに訪れる大きな転機

 トヨタは、直面する危機をどのような体制で乗り切ろうと考えているのだろうか?来年春で渡辺捷昭社長が就任して2期4年が経過し、トップ交代は確実とみられるだけに、豊田章夫副社長への大政奉還に踏み切るのか、世襲を見送るのか、注目されるところだ。

 ちょうど3年半前に夕刊フジで、オーナー系企業のトップ交代に関する記事を執筆した。同族経営と言われる鹿島、トヨタ、三洋電機、大林組の4社で行われたトップ交代を取り上げた内容で、関連記事としてMSKアーカイブに収録したので、お読みいただきたい。

 結果的に、同族への世襲を強行した三洋電機と大林組は経営不振や不祥事を理由に早々にトップが退任に追い込まれた。世襲を見送ったトヨタと鹿島には大きな問題は起きなかったが、自動車業界も、建設業界も過去に経験がないほど経営環境は厳しさを増している。両社ともオーナー家への大政奉還の可能性が高いと言われてきたが、企業だけでなく政治の世界でも世襲批判が高まっている。

 IT業界で論客として知られるある上場企業の役員が、面白い見方をしていた。

 「トヨタの次期社長は、間違いなく章一郎さんの息子で副社長の豊田章男さんだろう。いま、トヨタも自動車業界も大きな転換期を迎えている。誰が社長になっても危機を乗り越えるのは容易ではないだろう。章男さんがトップなら、失敗しても責任を取らせるわけにはいかない。むしろ、思い切った改革を進められる」

 残念ながら、章男さんにはまだお会いしたことがないが、ぜひ一度、話を聞いてみたいものである。

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