記者という商売が面白いのは、何と言っても「現場記者」である。好き勝手に取材して記事に書いて情報を発信する―。最近ではSNSを通じて自由に情報を発信する人が増えているが、それによって反響があったり、共感されたりするのが刺激的で面白いからだろう。私自身、36年間も記者を続けてきたのも、それが最大の理由だ。

  記者の仕事は「他人事」で記事を書くことである。当事者にとっては迷惑な話だろうが、芸能人が不倫しただの、元高級官僚が事故を起こしただの、ミュージシャンが麻薬で捕まったのだの、記者本人には全く関係のないことなので、遠慮せずに記事を書くことができる。だからと言って、どんな記事を書いても良いわけではない。そこには守るべき決まり・ルールがある。

新聞倫理綱領とは何か?

  日本新聞協会では「新聞倫理綱領」を定めている。国民の「知る権利」は民主主義社会をささえる普遍の原理であるとし、その担い手として「自由と責任」「正確と公正」「独立と寛容」「人権の尊重」「品格と節度」の5項目を記している。

  放送業界にもNHKと日本民放放送連盟で「放送倫理基本綱領」を定めており、放送への苦情や放送倫理の問題に対応する第三者機関「放送倫理・番組向上機構(BPO)」も設置している。このほかに、日本専門新聞協会、日本書籍出版協会、日本雑誌協会など様々な団体が倫理綱領を定めており、マスコミ倫理懇談会全国協議会には、新聞、放送、出版、映画、レコード、広告など211の企業(団体)が加盟している。

  私が在籍していた日本工も新聞協会に加盟しており、記者を名乗る以上、倫理綱領は守らなくてはいけないと思っている。新聞協会のホームページに掲載されている倫理綱領を読むと、堅苦しい文章で書かれているが、要はできるだけ「自分事」を排して「他人事」として記事を書くことだと解釈している。

  経済記者として入社した当時、先輩からは「株は絶対にやるな!」と釘を刺された。「自分で株もやってないのに偉そうに記事に書くな!」という人もいるが、株をやっていれば経済記事を書くことが「自分事」になるからだ。誰でも自分事にはバイアスがかかりやすくなるし、思わずウソを書きたくなることもある。実際に株価を上げるためにウソの記事を書いた記者も過去にはいたと聞く。

 記者がサラリーマン化する理由

  記者も40歳前後になると、現場を卒業してデスク(次長)など管理系の役職に就く時期が来る。これまでのように好き勝手に記事を書いているだけでは給料をもらえなくなる。嫌な仕事も増えて、会社の先行きのこと、生活や将来のことなど、自分のことを考え始める。ある意味、「自分事」で記者という商売に向き合わざるを得なくなる。

  現場記者を卒業して管理職になれば、一般企業のサラリーマンと同様に、新聞社の上層部を気にしながら仕事をせざるを得ない。出世して偉くなろうと思わなくても、現場記者時代とのギャップに悩む記者は多いだろう。私の場合は、当時の社長の下で働き続けるのは「どう考えても無理だなあ」と思って新聞社を辞めた。そのほかに様々な理由で退社していく同僚は少なくない。

  20代、30代の優秀な記者であれば、他のメディアに移って働くこともできるが、40歳を過ぎると記者として拾ってくれるメディアも少なくなる。フリーランスジャーナリストとして活動していくのも余程の実績がないと難しいし、収入も不安定になる。記者以外で、経済記者のキャリアを生かせる再就職先となると、企業の広報担当やPR会社、調査研究能力を生かして大学やシンクタンクなどが考えられるが、いずれにしても狭き門だ。

  政治部の記者はよく知らないが、記者出身の政治家もいる。日本工の記者から政治家になったのが、今は東京オリンピック組織委員会会長の森喜朗元総理である。一応、産経新聞出身となっているが、在籍していた2年間は日本工だった。そのことは日経新聞に掲載した「私の履歴書」で詳しく書いている。森さんは日本工で経済人との人脈をつくって政治家になったそうだ。

 現場記者にかかるプレッシャー

  現場記者の仕事は面白いと書いたが、「他人事」として記事を書くのには苦労もある。まずは取材できないと記事は書けないので、どうやって取材機会を確保するか。取材先に忖度したくなるのも「気に入られて良い情報を得たい」とか「機嫌を損ねて出入り禁止になったら困る」とか「会社の上司が取材先と仲が良いので喜ぶ記事を書けば点数が稼げる」とか理由はいろいろあるかもしれないが、読者から見れば記者の「自分事」である。

  新聞社やテレビ局に在籍していて毎月、給料がもらえる環境にあるのなら、取材先に忖度する必要はないはずである。いくら取材先から嫌われようが、新聞・テレビの看板を背負って記者クラブにいれば取材できるのだから別に遠慮する必要はない。しかし、たまに記者会見に出ても、最近の現場記者は大人しい印象を受ける。上司も変なプレッシャーをかけずに好き勝手に記事を書かせていれば、記者たちは面白いネタをつかんでくるものだ。

  自動車担当時代(1993〜96年)の部下だったY君は、典型的なスクープ記者だった。デスクが「Yに、発表モノを含めてもっと記事を書かせろ!」と言うので、「発表モノが必要なら、自分たちが書きますよ。Y君には好きにやらせますから」と突き返した。その後も、企業からは「Y記者の要求が厳しくて、広報がノイローゼになりそうだ」とか、日経新聞の記者から「Y記者が次に何を書くか、朝来て新聞を見るのが憂鬱だ」という声を聞くほど活躍したが、私が退社したあと残念ながら若くして亡くなった。

  新聞・テレビの経営陣や編集・報道トップが現場に余計なプレッシャーをかけるようになると、現場記者も忖度せざるを得なくなる。記者自身も、「自分事」を考えて自ら忖度するようになる人もいるだろう。いつまでも好き勝手に振舞っていると、編集・報道部門から外されて干されることも珍しくない。そうなった時に、元NHKの相澤記者のように辞められる人は限られている。

 記者の負担は「時間・コスト・クレーム」

  どうやれば「他人事」で記事を書き続けることができるのか?フリーランスになってから、暗中模索してきたが、最近はますます難しくなってきたと感じる。「他人事」で記事を書くとは、会見や取材などで得られた情報に間違いがないか、ウソがないか、不足がないかなど、客観的に判断したうえで記事を書くことだが、情報の正確性や客観性を担保するには時間もコストもかかる。

  よく「中立的に記事を書く」との大義名分で、異なる事象や意見がある場合は「両論併記」すべきとの意見もあるが、それはケースバイケースである。どちらも正しいと判断できるなら併記する意味もあるが、一方に間違いやウソが入っていると判断しながらも両論併記するのは単なる記者の責任逃れである。どこまで取材して書くかは難しいが、取材が不十分だとクレームなどのリスクが高まる。

  記者の社会的な役割は権力の監視機能と言われてきた。経済記者であれば、行政機関や企業の活動を監視し、コンプライアンスに基づきフェアなビジネスを展開しているか。最近であればSDGsなどへの取り組みも大きな関心事だろう。国の経済政策にしても、政策の中身で判断するだけだ。記者の負担となる時間もコストもクレームも「自分事」だと思って飲み込むしかない。

  旧民主党政権時代に行った事業仕分けで、TBSの人気番組だった「みのもんたの朝ズバッ」に呼ばれたことがある。事前収録だったが、UR都市機構の事業仕分けに関して番組のディレクターは「URなんて不要ですよね」と質問を振って、私からコメントを引き出そうと躍起だった。相手の意図は判ったが、私は「URは不要だ」とのコメントはしなかった。

  放送後にURから電話がかかってきて感謝されたが、別にお礼を言われようと思ったわけではない。URが果たしている社会的役割をきちんと整理しないまま仕分けするのは乱暴な議論であり、拙速と考えていただけだ。日本不動産ジャーナリスト会議では、毎年1回はURと研修会を開催してきた。その場を通じてURの経営陣から話を聞き、議論もして、彼らの役割を理解していたから、そうコメントしたまでだ。

  しかし、2016年に甘利明TPP担当大臣(当時)の秘書がURの道路用地買収に伴う補償金請求での口利き疑惑が発覚した後、URはREJAとの研修会を中止したままだ。甘利問題について聞かれるのがよほど困るのだろうか。URにとって決して良いことではないと勝手に心配している。

つづく

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