【コラム】記者クラブの思い出は麻雀とゴルフ?―記者を続けてきて思うこと(1)(2020-04-08)

 記者という商売を始めて2020年度で37年目に入った。新聞社に在籍したのが約16年で、フリーランスになってちょうど20年目となる。その間に本をたくさん書いたわけでもないし、メジャーなメディアで連載を持ったこともない。講演会やテレビ出演もほとんどない。そんな自分がこの商売を長く続けられたのは“他人事”で仕事に向き合えたからだと思っている。2020年度の日本アカデミー賞を受賞した映画「新聞記者」で描かれているような記者もいれば、私のようにダラダラと続けてきた記者もいる。昔と今では、記者を取り巻く状況は違っているが、20年をめどに記者として経験した出来事を記録に残すことにしているので、忖度なしにありのままを書いておく。新型コロナウイルス感染危機で外を出歩けない時期、15000字も書いてしまったが、ヒマつぶしにどうぞ。

注)初出の原稿が長くて読みにくいので、5本に分割して編集し直しました。(2020-08-06)

社会正義を貫く社会部記者たち

  新型コロナの感染拡大が騒がれ始めた3月6日に第43回日本アカデミー賞の授賞式があった。最優秀作品賞に選ばれた「新聞記者」は昨年7月に私も日比谷の映画館で鑑賞した。東京新聞編集局社会部の望月衣塑子記者が2017年に出版した本を原作に映画化したもので、最優秀主演女優賞を受賞したシム・ウンギョンさんを望月記者に重ね合わせてみた。もちろん映画の中だけでなく、実際の活躍ぶりにいつも感心している。

  3月18日発売の週刊文春では、元NHKで大阪日日新聞の相澤冬樹記者が「森友自殺財務省職員遺書全文公開―すべて佐川局長の指示です」と題するスクープを書き、珍しく週刊誌が完売した。NHK時代から森友問題を追及し、それが原因でNHKを退職したというのだから“記者魂”のある素晴らしい記者である。

  望月さん、相澤さんとも経歴を見ると社会部の記者なので、経済専門の私は全く面識がない。メディアの編集・報道部門は、政治部、経済部、社会部、国際部、科学部、文化部などの部署に分かれており、記者の花形は事件・事故を扱う社会部だ。大手メディアに入社すると、まずは地方支局に回されて、最初は地元警察などを取材する“サツ回り”を経験して記者のイロハを覚える。その後でそれぞれの部署に分かれるのだが、記者から見ても社会部の記者たちは社会正義を貫く気持ちが強く、記者らしい記者が多い。

  私の場合、記者と言ってもスタート地点から違っているので「記者」のことをわかっているようで実は良くわかっていない。大学では建築学を専攻し冗談半分で入社試験を受けて日本工業新聞(現・フジサンケイビジネスアイ)に1984年4月に入社して、支局勤めもサツ回りも経験がない。当初から地方勤務がないことが入社の動機なので、記者としての志しがないまま記者になったクチだ。いまだに「ジャーナリスト」を名乗ることに気恥ずかしさがある。

  どんな商売でも大活躍して社会的に成功する人もいれば、業界の片隅でホソボソと商売している人もいる。それは記者も同じだろうと思うが、何を持って「記者」と言うのかは難しい。記者から見た「記者」を書くと言いながら、全く自信がないことを最初に断っておく。

 記者クラブの基礎知識

  日本工業新聞に入社する前に分かっていたことは、フジサンケイグループの経済専門新聞であるということだけ。私の身近に広告代理店に行った大学の先輩はいたが、メディア業界に携わっている人は誰もいなかったので、どのようなところかも知らないまま飛び込んだ。編集局の記者として配属が決まると、担当となった「記者クラブ」に会員登録して、記者会見などに出入りする。

  最初の担当はアルプス電気やTDKなどの電子部品業界。半年ほどで半導体担当になり、86年から5年間はコンピューター・ソフトウェア担当になった。産業界としては電機業界を6年半ほどウロウロした。当時は電機業界にも記者クラブがあり、東京・大手町の旧・経団連会館内に、電機業界、自動車業界、機械業界など幅広い産業をカバーする経団連機械クラブ(1999年に廃止)があった。

  機械クラブの記者室には日本工業新聞の机は一つだけだったので、ベテランの機械担当キャップが常駐。普段は大手町のサンケイビル内の本社で原稿を書いていたが、記者クラブに緊急会見などの飛び込みがあると、記者クラブに駆け付ける。毎日、大量に配布されるプレスリリースも取りに行くので、記者クラブには毎日のように出入りしていた。

  メディア関係者には説明する必要もないことだが、記者クラブについて簡単に説明しておく。記者クラブは、国会記者会や東京・霞が関の官邸や官公庁などのクラブが良く知られているが、経済・産業関係の記者クラブも多かった。経団連会館には、機械クラブのほかに、経済団体などを取材する財界クラブ、電力・ガス・石油などのエネルギー記者会、鉄鋼・化学などの重工クラブがあり、金融担当の日銀クラブ、証券担当の兜倶楽部、旧電電公社内のあおいクラブ(現・情報通信記者会)、旧国鉄内のときわクラブなどがあった。

  記者クラブには 朝日、毎日、読売、日経、産経、NHK、民放キー局、共同通信、時事通信、東京(中日)、北海道、西日本などの有力地方紙に、日刊工業新聞(日刊工)、日本工業新聞(日本工)などの記者が常駐していた。これらのメディアで構成する記者クラブは「一般紙記者クラブ」と呼ばれ、専門紙・業界紙で構成される「専門紙記者クラブ」とは分かれていた。

  専門紙に近い日本工がなぜ一般紙の記者クラブに加盟していたのかはよく分からない。ただ、記者クラブを通じて一般紙の記者とも付き合いができたし、専門紙向け記者会見などを通じて専門紙の記者とも交流があった。日本工の記者だったおかげで、いろんな立場の記者と知り合うことができたのは確かだ。

 記者クラブの思い出―麻雀編

  日本工は一応、日経と競合関係にあるのだが、圧倒的に取材力の差があったし、取材先からの扱いも違っていた。当然、朝毎読、NHK、共同、時事から見たら、日本工を競争相手とも思っていなかっただろう。そんなわけで日本工の記者だった私は、日経や大手メディアにスクープを抜かれても上司から叱責されることもなく、記者クラブ内でのびのびと過ごしていた。

  記者クラブ時代のことを思い返すと、仕事よりも遊んだことばかりをよく覚えている。経団連機械クラブで最初に教えてもらったのが「チャガラ麻雀」。チャガラとは、いつ緊急記者会見が飛び込んできても、ゲームを中止できるように、1回ごとに清算する記者独特の麻雀ルールだ。

  たまに記者クラブに寄って談話室を覗くと、当時は昼間から麻雀の卓を囲んでいるベテラン記者がいた。自分から入りたいと言った記憶はないのだが、「おい、千葉ちゃん、入れよ」と誘われることが多かった。日本工は15時前に早版の締め切りが終わるので、夕方ぐらいに談話室を覗くとヒマだと思われたのかもしれない。

  日銀記者クラブ時代(1991〜93年)は、私が必死に原稿を書いている後ろのソファーに共同通信や時事通信のキャップが座って無言のプレッシャーをかけてくる。やっと書き上げて原稿を本社に送ると「さあ、行こうか」と言って、近くの雀荘に連れていかれるのだ。日銀クラブの談話室には花札も置いてあったので、日経新聞のキャップと待ち時間などにコイコイをよくやっていた。

  旧建設省記者クラブ(現・国土交通記者会)時代(1996〜2000年)も、麻雀好きの事務次官や官房長が「しばらく記者クラブとも麻雀していないなあ」と言うので、日経の若い記者を誘って、何度か麻雀をやったことがあった。とくに役所のOさんは強すぎて日経記者がボロ負けしたのは気の毒だったが…。フリーになって記者クラブに出入りしなくなると麻雀もコイコイも全くやる機会がなくなってしまった。

 記者クラブの思い出―ゴルフ編

  ゴルフを覚えたのも記者クラブだ。日本IBMが毎年、伊豆の川奈ホテルで経団連機械クラブとのゴルフコンペを開催していた。ちょうど米IBMと富士通がコンピュータープログラムの著作権紛争を展開している時期で、日本IBM社長の椎名武雄さんに会えるチャンスと思って参加した。

  ゴルフは大学の体育の授業でクラブを振った経験があるだけで、ゴルフコンペには参加せずに取材したら帰るつもりだった。しかし、前日の懇親会の席で椎名さんに「俺がゴルフ道具一式を借りてやるから、君も参加しなさい」と言われ、初めてのゴルフを川奈ゴルフコースで経験させてもらった。

  富士通でも当時は記者クラブとゴルフコンペをやっていた。取材目的で参加したら社長の山本卓眞さんと同じ組に。2回目のゴルフも緊張しながら走り回っていた。その後、日銀クラブでは東海銀行(現・三菱UFJ銀行)、安田火災(現・損害保険ジャパン日本興亜)、朝日生命の3社が毎年、記者クラブとゴルフコンペを行っていたので、ゴルフをやる機会が増えた。

  日本銀行と記者クラブも、毎年ゴルフコンペをやっていたらしいが、91年のバブル崩壊でソフトボール大会に変更になった。しかし、ゴルフの方がプレイの合間に時間があるので、いろんな話ができるし取材しやすい。自動車担当時代に、本田技研工業のM専務とラウンド中に一面記事になりそうなネタを引き出したこともあった。

  この時は、一緒に読売新聞とNHKの記者とラウンドしていたが、聞き耳を立てていた読売の記者が「千葉さん、僕にも書かせてください」と頼みに来たので、同日付けで日本工と読売で1面に掲載した。それは麻雀も同じで、卓を囲みながらだといろんな話ができる。記者クラブ時代の写真を見ると、現在でも日経新聞や朝日新聞で健筆をふるっている人たちの笑顔が見える。

つづく