30年以上も記者稼業を続けていると、歴史モノや評伝モノを書いてほしいとの依頼がたまに舞い込む。若手よりも取材現場を経験して多少は歴史を知っているだろうし、フリーは時間の余裕があるから引き受けると思うのかもしれない。確かに依頼があれば断らないので、これまでに4件の原稿を書き上げた。
(1)「新たな飛躍の10年をめざして―不動産業の足跡と将来像」(2003年3月、不動産協会)=不動産協会設立40周年記念誌(執筆文字数:約9万字)=写真・左=
(2)「破綻懸念先から経営再建へ―負債350億円からの生還」(未刊行、2007年6月脱稿)=ある中堅地場不動産会社の経営再建物語(執筆文字数:約12万7000字)
(3)「最新データで読む産業と会社研究シリーズ・住宅」(2008年3月、産学社)=学生向けの住宅業界紹介本(執筆文字数:約7万6000字)
(4)「(仮)マイクロソフト」(未刊行、2016年4月脱稿)=ITが詳しくない学生や一般読者でも読みやすい企業紹介本(執筆文字数:約5万8000字)

読まれる周年記念誌とは?

 先に掲載したコラム「30年分の棚卸作業を始めます」では、先輩記者たちが産業界やまちづくりなどの歴史に係る著作物を書き残していることを紹介した。そうした先輩方に倣って私も歴史モノを書くつもりがあるかと言われると、なかなか悩ましいところがある。とくにスポンサー付きの歴史モノの原稿を書く場合、やはり依頼者側の意向を内容に反映せざるを得なくなり、執筆者の思い通りの成果物を公表するのは難しいからだ。

 新聞社を退社してフリーランスになって2年目の時に不動産協会から設立40周年記念誌の執筆を依頼された。業界団体や企業の周年記念誌と言えば、年ごとの出来事を書き並べただけの本が多いが、設立40周年を迎える2003年に不動産協会理事長の勇退が決まっていた三井不動産の田中順一郎会長(故人)が「せっかくなら多くの人に読まれる周年記念誌にしたい」との意向を示し、編集作業を委託された不動産業界紙を経由して私に執筆依頼が来たのである。

 「土地バブルが発生した80年代前半からバブル崩壊を経て現在までの約20年間にスポットを当て、できるだけ多くの人に取材してジャーナリスティックな視点で読まれる記念誌を書いてほしい」との要望だったので、私も喜んで引き受けた。周年記念誌といえば複数の執筆者で手分けして原稿を書くことが多いが、千葉が取材先全員のインタビューを行い、原稿も全て一人で書き上げることになった。

自主規制せずに元原稿は書き上げる

 不動産協会がリストアップしたインタビュー先は下記の方たちだった。

<不動産会社トップ>
○三井不動産社長・岩沙弘道氏(現・会長)
○三菱地所社長・高木茂氏(日本ビルヂング協会連合会理事長)
○住友不動産社長・高島準司氏(現・会長)
○東急不動産社長・植木正威氏
○東京建物社長・南敬介氏
○大京社長・長谷川正治氏
○阪急不動産社長・渡邊伍朗氏

<有識者インタビュー>
○学習院大学教授・岩田規久男氏(現・日本銀行副総裁)
○ちばぎん総合研究所社長・額賀信氏
○北海道大学大学院教授・越澤明氏
○武蔵大学教授・辻山栄子氏
○不動産経済研究所社長・角田勝司氏
○みずほ証券シニア不動産アナリスト・石澤卓志氏
○野村證券金融研究所企業調査部研究員・塩本淳一氏

 さらに土地バブル時代を良く知る人に当時を振り返ってもらうことになり、取材先として不動産協会は1992年の地価税導入を決めた当時の政府税制調査会委員だった東急不動産会長(当時)の安藝哲郎氏(故人)と、1980年代後半に国土庁官房長・事務次官として土地行政に深く関わった参議院議員(当時)の清水達雄氏(故人)の2人を指名。私は、80年代後半に日本銀行の営業担当理事だった富士通総合研究所理事長(当時)の福井俊彦氏(2003年3月に日銀総裁に就任)と、1998年に小渕恵三内閣が設置した経済戦略会議委員に就任した森ビル社長の森稔氏(故人)の2人を提案して採用された。

 その他に、私の判断で三菱地所取締役経営企画部長だった木村恵司氏(現・会長、不動産協会理事長)や三井不動産販売取締役デューデリジェンスンス事業部長の針谷博史氏らにも取材。最後に旧国鉄跡地売却の86年当時に運輸大臣、不動産融資総量規制を実施した1990年当時に大蔵大臣、不良債権処理で山一証券、北海道拓殖銀行が破たんした1997年当時に総理大臣だった橋本龍太郎衆議院議員にも話を聞こうということになり、インタビューが実現した。

 「多くの人に読まれる」本にするのなら、筆者である私自身が取材を通じて面白いと思ったコメントやエピソードを臨場感を出すためにもふんだんに盛り込むことが不可欠だろうと考えた。最初から活字にしたら不都合なコメントやエピソードをライターの方で自主規制してカットしてしまっては中身が詰まらなくなる。「本当に不都合な部分は不動産協会の方でカットだろう」と気楽に考えて、約9万字の元原稿を書き上げた。

40周年記念誌と50周年史を比較すると

 元原稿を読んで、記念誌発行責任者だった三井不動産の渉外担当役員はかなり憤慨したらしい。業界紙の担当編集者や不動産協会の事務局が元原稿を読んだ時には「とくに問題はないだろう」との評価を得ていたのだが、当事者である不動産会社が読むと、とても承認できる内容ではなかったようだ。千葉はその後の編集作業から外され、不都合な部分は根こそぎカットされて全体的にはマイルドな書きぶりに書き直された。

 「元原稿とはかなり違う中身になってしまい、千葉さんの名前をクレジットタイトルに入れるのは失礼なので入れませんでしたから…」―記念誌が発刊される直前に担当編集者からはそんな連絡があった。発行予定期日が迫るなかで書き直し作業はかなり大変だったようで、三井不動産の担当役員は私に原稿執筆を任せたことを後悔したのかもしれない。それでも何とか2003年3月に40周年記念誌は無事に刊行された。

 03年5月に開催された不動産協会の定時総会で理事長は田中順一郎氏が退任し、住友不動産会長の高城申一郎氏(故人)が就任した。総会後の懇談会に私が顔を出すと、三菱地所の木村さんがやってきて「千葉さん、悪いけど私のコメントなどは全てカットさせてもらったから」と言って立ち去った。私には木村さんが取材の時に問題発言したという認識が全くなかったので、なぜカットしたのか理解できず、少々がっかりしたことを覚えている。

 不動産協会では2013年7月に「不動産協会五十年史」を刊行した。五十年史の方は、まさに業界団体の周年誌に相応しい体裁の本に仕上がっていた。この時の不動産協会理事長が三菱地所の会長になった木村さんで、10年前の反省(?)を踏まえて定番スタイルの業界史本にしたのだろう。内容的にも40周年記念誌では地価動向、市場動向などを示すグラフや写真、表などを多く取り入れたが、50周年史はグラフも写真もなく、ただ活字だけが並んでいる地味なものとなった。

不都合な記録も残すためには

 もともと歴史書の類いは、その時の権力者やスポンサーが自らに都合が良い内容で編さんされるものと相場は決まっている。不都合な部分は削除され、時の流れとともに記憶からも消去されて失われていく。そんなものだろうとは思っていただが、実際に自分が書いた原稿が書き換えられたビフォー&アフターを目の当たりにすると、何とも言えぬ徒労感と脱力感を味わった。

 だからと言って、その後に書いた歴史モノで手を抜いたわけではなかった。文字数で5万字以上、400字原稿用紙なら125枚以上の原稿を書くのに「手抜きして書く」なんて芸当ができるわけもない。毎回、可能な限りモチベーションを高め、良い原稿に仕上げようと机に向かってきた。結果的にスポンサーの意向が反映せざるを得なくなったとしても、自分にとっては原稿料をいただいて勉強させてもらっているという感覚だった。

 ただ、「記者の終活」として歴史モノを書くのなら、できるだけ取材したままに原稿をまとめて公表したいとの思いはある。もちろん売れそうな企画なら出版社が協力してくれるかもしれないが、それはそれで少し誇張してみたり、単調な部分をカットしたりという編集作業が加えられる可能性が高い。取材費も原稿料も出版費用も全て自腹でやるなら可能かもしれないが、そこまで自分がやる意味がどこにあるのか。「面白そうだから、ちょっと協力してやるか」という奇特な方がいると助かるのだが…。

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