【編集後記】フリー生活、10年を振り返って―2020年にメディア業界はどうなっているだろうか?(上)(2011-01-06)

 日本工業新聞社を2000年末に退社して、フリーの経済ジャーナリストを名乗るようになって丸10年が過ぎた。「よくもフリーで10年もやってこれたものだ」と、メディア業界の厳しさを知る人たちからは口々に言われるが、まさにその通りで、ひとえに私を支えてくれていただいた方々のおかげである。深く感謝を申し上げたい。
「本当にありがとうございました。引き続き、今後もよろしくお願いいたします」
 ただ、そうは言いながらも、自分自身、あと何年、ジャーナリスト活動を続けられるかは全く分からない。この10年を振り返っても、自分が予想していたほど日本のメディア業界の変革は進まず、日本経済と同様に停滞したままだからだ。ジャーナリズムの視点からは、むしろ劣化してきているかもしれない。果たして10年後の2020年、メディア業界はどうなっているのだろうか?

日本工業新聞社を退社した本当の理由

 「千葉利宏氏、独立!個人事務所「エフプランニング」設立、2000年末で日本工業新聞を円満退社」という、冗談半分(?)で作成した挨拶葉書を出してから10年が経過した。これを読む限り意気揚々と、新聞社を辞めてフリーになったように見えるが、単に会社にいられなくなっただけの話である。

 別に不祥事(?)を起こしたわけではない。当時、すでに日本工業新聞は様々な経営問題を抱えており、嫌が応にもそれらの問題に巻き込まれてしまったのである。

 記事にしなかった“昔話”を書くのは「20年が経過」するか、もしくは「当事者が死去」するかのいずれかを、自分なりのルールに設定している。すでに「日本工業新聞」という新聞も2004年になくなり、編集局も2007年に産経新聞の経済部に統合されて消滅したも同然。交流のある元上司や元同僚もいまやごくわずかだ。

 そんな遠い過去を今さら穿り返すこともないと思うかもしれないが、メディア業界の経営問題が深刻化するのはこれからが本番だろう。手元には、当時の日本工業新聞の経営問題や紙面づくり(商品づくり)に関して私が書き記したレポートが残っている。改めて読み返すと、認識が甘かったり、的外れだったりするところも多々あるが、自分なりに厳しい経営状況の中で日本工業新聞を何とか再生し存続させたいとの熱い思いが詰まっている。

 この10年間、新聞業界の先輩諸氏のご厚意で、日本不動産ジャーナリスト会議や一般社団法人IT記者会に参加させていただき、その活動に積極的に関わってきた。その背景には、低迷する日本経済や産業の状況を打開できない経済ジャーナリズムに対する危機意識がある。先例なき時代に向けて日本社会を変えなければならないと言いながら、自らは全く変われないメディア業界の状況をメディア自身はどう考えているのだろうか。

危機的状況の陥っていた編集体制

 日本工業新聞を辞めざるを得ない状況になった端緒は、1999年の春のことだった。社内に紙面改革委員会なるものが立ち上げられ、その委員にさせられたのである。私自身は、そのような委員会にお呼びがかかったのは初めてのことだった。

 委員会の目的は単純明快だった。産経新聞からの天下り社長に就任したY氏によって日本工業新聞ではリストラに次ぐリストラが行われ、東京編集局の記者の数は40人程度まで削減され、まともな取材体制を組める状態ではなくなっていた。要は、従来の紙面づくりが難しくなったので、わずか40人の記者で可能な紙面づくりを考えろ!というのである。

 紙面改革委員会が立ち上がる時、私は、委員長である編集長のE氏に、自分の判断でタタキ台となる「紙面改革レポート」を書き上げて提出した。Y社長体制になってから一人の現場記者が日頃から感じている問題意識をまとめたもので、社内にも千葉レポートは広く出回ったようである。

 委員会は、4、5月に何度か開催され、千葉レポートの内容をベースに提言がまとめられることを期待していた。ところが、途中でE氏預かりとなって議論は中断。「どうしたのか?」と怪訝に思っていたら、突然、7月になってE氏からメンバーに召集がかかった。委員会報告をY社長に説明する会議に出席してほしいというのである。

 会議の場で、委員会報告書なるものに初めて目を通して、驚いた。メンバーで議論されていたはずの内容がほとんど書かれていない。明らかに日頃の社長の発言や指示に沿ったような内容に書き直されている。ところが、会議の場で、Y社長は報告書に対して猛烈なダメだしをして見せたのである。E氏の顔はみるみる紅潮して額から汗がどっと噴き出した。

 会議が終わったあと、私はF取締役編集局長によって大幅に書き直された赤字だらけの報告書の下書きを見せられた。要は私を含む委員会メンバーで作成した形の報告書(中身は全くの別物なのだが…)を、公式の場で叩き潰したかったのだろう。その後、当初のメンバーは委員会から外され、10月の紙面刷新に向けてF氏とE氏が中心になって新しい紙面づくりが進行。産経グループの社内報には、紙面改革委員会を中心に編集局全体で作り上げた新紙面との記事が掲載された。

記者7人、大量脱走の顛末

 現場記者の間には、Y社長体制に対する失望感が深まった。99年の春から秋までの半年間に、7人の記者が辞表を出して、日本工業新聞を去った。それも、大蔵省、日銀、通産省などのキャップを任されていた中心的な記者ばかりである。曲がりなりにも全国紙である新聞社から7人の記者が大量脱走したことは、週刊誌にも取り上げられて話題となった。

 すでに現場記者が40人程度となっていた編集局から中心的な記者やデスクが7人も抜ければ、もはや紙面はガタガタである。それでもY社長は、編集局長をF氏から、現場記者に人望があるK氏に交代し、業界紙などから急きょ記者を募集して補充。「改革には多少の出血は止むを得ない」と言い放って事態を乗り切ろうとした。

 さすがに憤りを抑えられなくなった。12月に、K編集局長宛てに改めて紙面改革案をまとめたレポートを提出。その中でY社長とF氏の辞任を公然と求めた。さらに年が明けてから、同僚たちには黙って産経新聞の社長にもY氏の解任を求める手紙を送った。今になって思えば、随分と無謀なことをしたと思うが、今まで以上に劣悪な編集体制となれば、いずれにしても記者は続けられないと思ったからだ。

 3月に産経新聞の社長から「日本工業新聞の状況はいろいろと聞いて憂慮している」との返事が届いた。しかし、結局は6月の株主総会でY社長の続投が決まった。案の定、7月に入ると私に対する風当たりが強まり始めた。何とかサラリーマンとして産経グループの中で生き延びる方法もあったかもしれないが、1年以上も社内のゴタゴタに付き合わされ、記者活動に打ち込めない状況にも嫌気が差し、もう潮時と思って辞表を書いた。

 もちろん私程度の実績で、フリーのジャーナリストとしてやっていけると思っていたわけではない。とは言え、他にやりたい仕事もなく、一般企業のサラリーマンも勤まりそうもなく、「まあ、やるだけやってみるか…」というぐらいで始めた商売である。皆さんが「よくもフリーで10年もやってこれたものだ」とおっしゃるのも当然のことだが、まさか自分より先に「日本工業新聞」の名前が消えるとは予想していなかった。

厳しさを増すメディア業界の経営環境

 日本工業新聞は、私が退社した後、4年も持たずに「フジサンケイビジネスアイ」という題字の新聞に変わり、2009年にはタブロイド紙になった。産経新聞から新しい社長が送り込まれ、どのような改革が行われたのかは知らないし、あまり興味もない。ただ、言えるのは、この10年間に、新聞を中心にメディア業界を取り巻く経営環境は一気に厳しくなったということである。

 90年のバブル経済崩壊のあと、どの産業界でも企業の二極化が進んだように、新聞業界でも日経と業界紙の中間に位置する日本工業新聞から経営問題が表面化したわけだが、2008年秋のリーマンショックの後、全ての既存メディアで様々な問題が表面化し始めていると聞く。それらをどう乗り切ろうとしているのかは分からないが、これから10年先も、NHKを除いて全国紙5紙、全国民放キー局5局が存続し続けることができるだろうか。

 フリーのジャーナリストも、現時点では既存メディアから原稿などの発注を受けているので、新聞・雑誌の経営が厳しくなって仕事が減れば、一気に苦しくなる。だからと言って、全ての既存メディアと記者クラブ制度のような仕組みが、今後も存続し続けるのが良いとは思わない。メディアが公益的な報道機関としての役割を果たし、民主主義や自由主義経済を支える言論やジャーナリズムが健全かつ活発に機能することの方が重要だからだ。

 少々、原稿が長くなってきたが、後半では記者クラブ問題を含めて既存メディアのビジネスモデルについて考えてみたい。
つづく