【コラム】社会保障・税共通番号などのID基盤をどう活用するべきか―日本社会のソフトインフラ整備を考える(1)(2010-04-16)

 社会保障・税共通番号制度の議論が2月から始まり、素案が固まったようだ。2002年の住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)問題では個人情報保護の観点から強い反対運動が起きたが、07年の年金記録問題の混乱もあって、今のところ反対の声はあまり聞こえてこない。しかし、日本では国民、企業、土地・建物などの主要な課税対象を統一IDを管理することへの国民の警戒感は強く、2005年に導入された「不動産番号」もほとんど活用されていないのが実情だ。ICT(情報通信技術)分野では国民ID制度として官民が連携して利用できるID基盤を構築すべきとの声も高まっている。鳩山政権では「新しい公共」のあり方についても議論を始めているが、ID基盤の活用について公共の福祉とプライバシー保護のバランスから議論すべきではあるまいか。

「本人確認」を行う基盤としての住基ネット

 02年8月に稼動を開始した住基ネットは、匿名性の高いインターネット上で『本人確認』を行う基盤として構築された。しかし、国民一人ひとりに、住民票コードをつけてID管理が行われることから「国民総背番号制の導入につながる」として反対運動が起こり、全国で住基ネット訴訟が相次いだ。総務省の関係者からも「裁判が一巡するまでは、しばらく身動きが取れない」と諦めの声も聞かれていたが、08年3月に最高裁で最初の住基ネット合憲の判断が下された。現在は最後の住基ネット関連訴訟が最高裁で審議されており、年内には決着するとみられている。

 確かに当時は、地方自治体のコンピューターセキュリティは不十分との専門家の指摘は少なくなかった。行政側のセキュリティ意識もまだ低かったように思う。しかし、地方自治体の情報システム部門を取材すると、最近では内部犯行を防止するため静脈認証システムを導入するなど、当時に比べてセキュリティ対策も格段に進化した。そういう意味で「水と安全はタダ」と言われてきた日本人のセキュリティ意識を高めるのに住基ネット問題は大いに貢献したと言えるかもしれない。

新たなイノベーションを生み出すのに不可欠な情報結合

 その一方で、住基ネット問題の後遺症も指摘されてきた。インターネットの威力は、これまでバラバラに存在していた「情報」を相互連携させることで、新しいビジネス・イノベーションを生み出すところにある。個人情報保護法も本来はネットを通じて得られた個人情報を活用できるようにするためにつくられた法律であり、05年から“Web2.0”が一大ブームを巻き起こしたのもインターネットの「集合知」によって新しいビジネスや産業が生まれるとの期待感があったからだ。

 しかし、Web2.0ブームも期待したほどの成果を挙げられず去った。ネット上に蓄積された膨大な「情報」から必要なものを集めて新しいサービスを提供するためには、属性によって情報を“ヒモ付け”していく必要が出てくる。そのためのID基盤が日本では整備されてこなかったからだ。もちろん、それだけが原因ではないが、日本では国全体でのICT(情報通信技術)の利活用が進まず、世界経済の成長分野であるICTの国際競争力は低下の一途。世界のICT市場における存在感は薄れていく一方だ。

 経済産業省が09年10月にインターネットを通じて国民にIT政策に関する意見を広く募集するために開設した「アイディアボックス」には「ID基盤の整備」を求める意見が多く寄せられた。鳩山政権になって初のIT戦略会議会合が3月19日に開催される直前に、経済同友会日本経団連がそれぞれICT政策に対する提言を発表したが、そこでも国民ID制度導入の必要性が強く打ち出された。日本の経済成長にとっても、ID基盤の整備が必要との認識は高まっている。

監視社会や情報統制に対する不信感

 国民ID制度の導入は、経済的な観点から考えれば必要であることは間違いない。ただ、1960年代に国民総背番号制の議論が始った当初から、その経済的メリットは判っていたはずである。それでも導入できずに来たのは、もはや理屈でどうのこうの言う問題ではないのかもしれない。住基ネット問題のときも、個人情報保護が確保できるかどうかという議論ばかりの焦点となり、個人情報の「利活用」について踏み込んだ議論はほとんどできなかった。

 国民総背番号制が反対されてきた理由を調べてみると、第二次世界大戦前の日本で国民の番号管理が行われていたとか、ドイツのユダヤ人虐殺でも番号が利用されていたといった暗い過去や、監視社会の未来を描いた小説「1984年」(ジョージ・オーウェル著)などがよく引き合いに出される。さらにインターネット時代を迎えて、番号を利用して勝手に個人情報が集められることで、プライバシーが侵害されたり、犯罪に巻き込まれたりする危険も高まるとの指摘がある。

 私自身も、情報を扱う仕事をしているだけに、監視されたり、身辺を調べられたりすることへの恐怖心がないわけではない。中国でのグーグル問題のように、情報が監視され統制されることの危機感も強く感じている。国民ID制度が導入されれば、監視されるリスクは高まるのは確かだ。その一方で、国民にとってのメリットやリスクを客観的に議論していく必要性も感じている。

都市化、国際化が進む中で求められる社会基盤は何か?

 日本でも、かつてムラ社会から都市型社会への移行が一段と進み、今後は外国人居住者や観光客の増加も見込まれて、インターネット上だけでなく、現実社会でも『本人確認』の重要性が増していくと思われる。3月末に中山弘子新宿区長の講演を聴いて驚いたが、新宿区の外国人居住者の数は全体の1割、20代の人口でみると25%を占めているという。09年7月の住民基本台帳法の改正で、外国人居住者を住民基本台帳法の対象に加えた意味を理解した。

 世界的にみてもグローバル化と都市化が進んでいくなかで、国民ID制度によって監視社会が到来するリスクよりも、都市における治安維持や住民サービスの向上の必要性が高まっているのではないか。プライバシーに厳しいドイツが09年に税に関するID番号制度を導入したのも、EU全体が行政サービスの効率化を積極的に進めているからだろう。

 人間としての自由と尊厳を保つためにプライバシーは大切である。ただ、社会情勢の変化で、日本でも定職に就いて安定的な収入が得られ、セイフティネットがきちんと機能する環境を求める声は高まっている。鳩山政権が社会保障・税共通番号制度の導入をめざすことにしたのも、最重要課題に位置づける年金制度改革において、民主党が導入をめざす方式が個人所得の把握を必要とするからだという。

 高齢者の介護問題や孤独死、自殺者の増加や若年層労働者の貧困問題、児童虐待やドメスティックバイオレンス(DV)問題の深刻化――日本社会が抱える様々な問題に対応するには、社会やコミュニティで支え合っていくため、日本でも2003年頃からソーシャル・キャピタル(社会関係資本)という新しい概念が広がってきており、人と人との信頼、規範、ネットワークを重視する考え方も広がってきている。

 今後、国民ID制度の導入が具体化してくれば、住基ネットの時と同様に賛否両論が出てくるだろう。国民総背番号制度から続く根強い反対運動が起きるのか、すんなりと導入が実現するのか。日本社会を映す大きなテーマであるのは間違いない。
つづく