もちろん、月次の販売シェアが4カ月連続で40%を割ったという事実だけで、この記事を書いたわけではない。国内市場において、販売動向に明らかな変化が見られ、こうした状況が続けばトヨタのシェアが落ちるのは避けられないと確信したからである。
当時、国内自動車市場は、バブル崩壊で高級乗用車の販売が落ち込み、販売台数全体も落ち込んでいたが、その中で売れている車があった。ワゴンやミニバンなどのRVである。このRVブームに乗って三菱自工が国内シェアを伸ばしていた時期であり、セダン系の車は軒並み苦戦を強いられていた。
フルライン商品を揃えるトヨタは、RVとして販売できる車種がある程度揃っており、ミニバン「エスティマ」なども投入して、セダン系の落ち込みをカバーしていた。ところが、こうしたRVブームに加えて、日米自動車摩擦と急激な円高を背景に94年ころから外資系メーカーが日本市場での販売攻勢を強めてきた。かつては高級車だった外国車も、円高による値下げで一気に購入しやすくなったのである。
セダン、RV、外国車―消費者にとって車の選択肢が一気に広がった。それと同時に、消費者ニーズの多様化が進み、外国車のシェアも着実に伸び出していた。
その結果、どのような現象が生じたか。
かつて、月2万台は売れていた車種が、月1万台しか売れなくなり、月1万台は売れていた車は5000台とか6000台しか売れなくなってしまったのである。つまり1車種当たりの販売台数が明らかに、どのメーカーのどの車種もほぼ例外なく、大きく落ち込みだしていたのだ。
自動車メーカーは売れ筋の車は4−5年に1度フルモデルチェンジを実施する。その新車発表会では、先代モデルの販売実績などを踏まえて新モデルの販売目標を設定して、公表する。ところが、その時期、販売目標を下回る車種が相次いだ。あまりに、そんな事例が相次いだので、販売目標をクリアしたかどうかを検証する少々悪趣味な記事を企画して書いた。
確かに新モデルの担当者にしてみれば、先代モデルの販売実績を下回る目標を出すわけにはいかない。消費者の嗜好が多様化し、市場そのものが変化しつつあるにも関わらず、体面だけの意味のない販売目標を自動車各社とも掲げ続けていたのである。
1車種当たりの販売台数が減少し、車種数そのものはほとんど変わってなければどうなるか。結果は明らかである。販売台数全体が減少するだけのことだ。しかも、次々と外国車が投入され、徐々に販売台数を伸ばしていた。そうした中で、トヨタのシェアそのものも低下せざるを得ない状況にあったのだ。
6月末の統計データが発表されると、予想通りにトヨタの国内販売シェアは半期ベースで40%を割り込む結果となった。あのトヨタの販売力をもってしても、40%を維持することはできなかったのである。
「トヨタ自動車、上期の国内販売シェア、13年ぶりの40%割れ」―最初の記事の扱いが「トヨタに遠慮して地味だったんじゃないの?」と日産自動車の広報担当者から皮肉られていたこともあり、第2弾はかなり派手な扱いとした。
しかし、なぜか、私の記事は、トヨタ自動車も見て見ぬ対応を決め込み、日本経済新聞など他紙からも無視された。
だが、自動車メーカーにとって、シェアほど怖いものはない。そのことはトヨタ自身が一番知っているはずだった。過去の統計を見ても、一度シェアが落ち始めると、短期的に回復するのは不可能だ。シェア奪回のための抜本的な対策は商品力を高めるしかないのだが、新型車の開発には最低4年はかかるため、シェアが落ち始めてからすぐに対策を講じても、効果が出てくるには最低でも4年かかることになるからである。
トヨタのライバルだった日産自動車は、70年代の半ばから労働争議問題が表面化して国内シェアの下落が始まり、私が担当していたころもまだシェアを落とし続けていた。バブル全盛の90年に、初代「セフィーロ」効果などで前年比0.1%シェアを回復したのを除けば、ほぼ20年間、シェアはまさに“右肩下がり”の状態。それだけ自動車販売において、シェア低下に歯止めをかけることは難しいのである。
95年上期に国内シェアの40%割れが確定した2カ月後の8月、病気に倒れた豊田達郎さんに代わって、奥田碩氏が社長に就任した。名古屋市に続き、その日の夕方、都内で開かれた社長就任記者会見で、奥田さんは最初にこう、言い放った。
「国内販売シェア40%を死守する!」
(つづく)