【IT】日本のITの歴史―SONY『NEWS』の戦略(2)(1989-03-20)

2.ソニーのコンピューター事業戦略

 ソニーのエンジニアリングワークステーション(EWS)「NEWS」が100万円台というセンセーショナルな価格設定で登場したのは、1986年9月であった。その直後に開催されたデータショウ86に大々的にNEWSが出展され、大きな話題を集めた。

 当時ちょうどわが国のEWS市場が立ち上がろうとしているところで、米国で急成長を遂げ注目を集めていたEWS専業メーカーの米サン・マイクロシステムズが86年3月に日本法人を設立、わが国で代理店の伊藤忠テクノサイエンス(当時は伊藤忠データシステム)と85年暮れにOEM契約を結んだ東芝の二社を通じて本格的な活動を展開し始めた時でもあった。しかし、EWSの価格は本体でようやく500万円を切り、ひとり一台は難しいが、なんとか手が出せる300万円台の製品が出始めたところである。そこにソニーがそれまでの半分以下の100万円台という常識を超えた価格でEWS市場に参入してきたのだから、注目されたのは当然の結果だろう。

 さらにその後も価格面でのリーダーシップを取り続けるとともに多くの新しい試みを矢継ぎ早に展開、わが国コンピューター業界に絶えず波紋を投げ掛けている。こうしたNEWSにおける事業戦略の最大のポイントは、ソニーのコンピューター事業を最初から指揮している土井利忠・取締役スーパーマイクロ事業本部長の卓越したマーケティング戦略にあるといって過言ではない。

 「21世紀にはミニマム3000億円の事業とする」と公言するソニーのコンピューター戦略を、製品、マーケティング、販売の各面から分析する。

2・1製品戦略

 ソニーが、大賀典雄社長直属の社内ベンチャーとしてコンピューター事業のためのグループを正式に発足させたのは、NEWSが発売される約半年前の86年5月のことであった。その2か月前にすでにNEWSが完成しており、土井氏はその試作機をもって大賀社長に事業スタートを直訴、スーパーマイクロ事業部が設置された。

 ではなぜ、コンピューター事業をスタートさせるにあたり、まずEWSの製品化から手懸けたのか。これは推測の域を出ないが、ソニーの企業文化に大きく影響していると思われる。ソニーは家電メーカーとしてこれまでも世界を相手に商売を展開、わが国でも有数のグローバル企業として事業を進めている。土井取締役も日頃から「日本だけではなく、世界に通用する製品を作るのは当然のことと考えている」というように、たえず目は世界に向けられているといっていい。

 そう考えると汎用コンピューターでは、IBMがガッチリ世界のマーケットを抑えており、ミニコンでもDECに勝負を挑まなくてはならない。逆にパソコンでは日本市場では日本電気が、世界市場ではIBM互換がそぴえ立っている。その当時は日本語版IBM互換のAXパソコンは登場していなかったから、日本市場向けには日電互換をやり、世界市場向けには競争が激烈なIBM互換をやるのでは、あまりにリスクが大きいといえる。

 消去法で考えていくと、必然的に答えはUNIXマシンに行き着く。UNIXであれば、世界でも日本でも共通の土俵で勝負できるし、市場の成長性も期待できる。UNIXはとくにエンジニアリング分野で使われており、まだ市場も小さいことから競合も激しくなく、しかもマシンの進歩も速いために新しい形の製品を生み出しやすい状況にあった。

 無論、実際はソニー社内に優秀なUNIXエンジニアが埋もれていて、彼を発掘できなかったらNEWSは生まれなかったし、NEWS誕生は単なる偶然といった方が当たっているかもしれない。しかし、偶然であってもそれが成功をもたらせば、偶然も必然となる。

 85年夏、スーパーマイクロ事業部が誕生する約1年前、土井氏とエンジニアは2人額を寄せ合って新しいUNIXマシンの製品コンセプトを議論した。そこで、ソニーが真価を発揮したのは徹底したマーケティング重視の姿勢であろう。コンピューター事業については全く素人(?)ということもあって、業界の有識者に会い、広く知識を吸収するとともにアドバイスを受けた。それとソニーとして培ってきた欧米におけるマーケティングカをプラスしてNEWSの製品コンセプトを固めていった。そして実際の開発へのゴーサインは85年の9月には出された。

 NEWS開発でとくに影響を受けたのは、わが国UNIXの大家で、日本UNIXユーザー会の幹部でもある岸田孝一SRA専務だ。岸田氏は現在通産省の大型プロジェクトとして進行中のシグマ計画の発案者で、85年頃にはは通産省との意見対立でシグマ計画からは外れており、在野で本当の意味でエンジニアが欲しているUNIX環境のあるべき姿を提唱し続けていた。

 大学などとの交流や岸田氏自らが設立したソフトウェアエンジニア協会(略称・SEA)や日本UNIXユーザー会での現場エンジニアとの交流から、岸田氏は「UNIXといっても本当にユーザーに使われているのは、米カリフォルニア大学バークレイ校で開発されたUNIXバークレイ版で、米ATTがサポートしているシステムXではない。それをベースに米マサチューセッツ工科大学(略称・MIT)で開発された窓表示機能「X Window」などの業界標準をきちんとサポートして、エンジニアがひとり一台で使うことができる低価格のUNIXマシンが求められている」と、様々なところで発言を続けていた。

 ところが、その頃の日本メーカーはそうした岸田氏の発言を無視して「今後のUNIXの標準はシステムXだ。世界的にもシステムXをサポートしているメーカーがほとんどで、それが世界の趨勢となっている」とのメーカーの論理を振りかざしていた。この論理は、メーカー同志の競争に追われたメーカーのユーザー不在の論理であることは明白だった。当時すでに世界の趨勢がバークレイ版に傾いていたことは素人(?)のソニーですら気が付いていたわけで、日本メーカーの本音がバグだらけであるパブリックドメインのバークレイ版をサポートするリスクを負わないための言い訳といわれても仕方がない。事実、87年当時は世の中の標準はシステムXだと言い続けてきた富士通が、88年にサン・マイクロシステムズからOEM供給を受けることになると、手のひらを返したように「UNIXの標準はパークレイ版」と発言する始末。

 ソニーではバークレイ版をベースとしたDECのUNIXであるULTRIXが世界のトップシェアを占めていること、82年2月にバークレイ版の開発者であるビル・ジョイ氏がサン・マイクロシステムズを設立、米国でのシェアを急速に伸ばしている状況から、バークレイ版のサポートを決意した.それにサン社が業界標準をめざしていた分散ファイルシステムのNFS、さらにサン社をはじめバークレイ版ではサポートされていなかったX Windowまで搭載して100万円という価格を実現するNEWS試作機を85年12月には一応作り上げ、岸田氏に見せてアドバイスを受けた。

 開発したWSをソニーでは、自社ブランド販売するとともに、サン社にOEM供給することを目論だ。試作機をサン社に持ち込むとサン社のエンジニアはひどく驚いたという。なんでも小さくすることには長けているソニーならではの技術を使い、それまでの常識を覆してCPU、メモリーなどでボードを分けず、ワンボード化することで小型化、低コスト化を実現していたためだ。

 結局サン社では、「その試作機に触発され、独自に同様のコンセプトの製品を開発することにした」(土井ソニー取締役)ため、ソニーの目論みは達成されなかったが、サン社に評価されたことでむしろ自信を深めたようだ。事実、NEWSが登場したあとで、サン社は同様の低価格機「Sun−3/60」を製品化している。

 NEWSの1号機が投入された以降の製品展開については、ソニーのマーケティング戦略に大きく係わっており、NEWSを武器にどのように市場を開拓しようとしたか。それもこれまで国産メーカーがあまり行なわなかった戦略が次々と展開されることになる。

(つづく)