【コラム】夫婦共働きで3人子育てして思うこと―男親の子育て話(2016-09-30)

 安倍政権が、一億総活躍社会の実現を目指して「働き方改革」に取り組み始めた。これからの日本では夫婦共働きで子育てするのが当たり前の社会にしようということらしいが、率直に言って無理だと思っている。自分が共働きで3人の子育てした体験を振り返っても、他の人に私たち夫婦と同じことができるとは思えないからだ。30年前は子育てのための制度や仕組みが今ほど整っていなかったが、社会全体に「気持ちの余裕」と、気付かぬフリ(?)をする「思いやり」があった。鍵を握るのは母親ではなく「男親の働き方」だろう。子育てのために男親が働き方を変えられるのか。その覚悟が男の方にあるとも思えないのだが…。

男親は子育てのサポート役だが…

 3か月ほど前から妻の病気が悪化し、手術を含めて治療に取り組んでいる。その過程で夫婦二人でいろいろと話し合う時間が増え、これまでの生活を振り返ることも多くなった。そんな時に妻がしばしば感慨深げにこんな話をする。

 「子育ては大変だったけど、本当に楽しかったわね。パパが協力的だったから、何とかやってこれたわ」 「いや、ママが頑張ったからだよ。お義父さん、お義母さんにも、本当にお世話になったし…」

 それから子どもが熱を出したときなどの思い出話が始まる。ただ、男親が具体的にどう協力的だったのかという話題はあまり出てこない。やはり子育ての中心は母親であり、男親がいくら頑張ったところでサポート役だからだ。

 男親の苦労を妻に話しても心配させるだけだと思ってきた。私自身が仕事と子育ての折り合いをどう付けてきたのかは、妻にもほとんど話したことはない。もちろん勤め先の新聞社の人間にも言っていないが、その実態が知られていたら、早々に会社をクビ(?)になっていたかもしれない。

 そうは言っても、直属の上司や同僚が全く気が付かなかったのか。ひょっとすると気付かぬフリをしてくれていたようにも思える。新聞社に在籍していた16年間、共働きで3人の子育てができたのは本当に会社のおかげである。そのことには深く感謝している。退社して15年以上が経過し、3人の子供たちも社会人となった今、男親の子育てを振り返る。少々長くなるが、お付き合い願いたい。

転勤のない就職先を探して

 私が東京理科大学建築学科を卒業し、日本工業新聞社に記者として入社したのは1984年4月。札幌市の実家(工務店)を離れ、浪人やら留年やらして25歳になっていた。1歳下の妻とは23歳の時に知り合ったが、すでに短大を出て埼玉県の小学校に教諭として勤務。大学4年で就職活動を始めたときには、いずれ彼女とは結婚しようと考えていた。

 「大手、準大手の建設会社に勤めたら確実に転勤がある。せっかく小学校教諭というヤリガイのある仕事に就いたのに続けるのは難しくなるだろう。すぐに辞めさせるのは申し訳ないので、まず自分ができるだけ転勤のなさそうな就職先を探そう」

 まだ結婚の約束もしていなかったので、彼女には相談もせず、勝手に自分でそう決めて就職活動を始めた。私の叔父が大林組と西松建設に勤めていて「入社するんなら、早く言ってこい」と言われていたが、サッサと断った。建設関係で転勤が少なそうな就職先として、首都圏中心の住宅会社にターゲットを絞って就職試験を受けてたが、なかなか内定がもらえない。

 ある時、大学に来ている求人票を見ていると「日本工業新聞」という会社が目に留まった。勤務先には「東京」とだけある。昔から文章を書くのは好きだったし、「工業新聞」だから建築専攻も生かせるかもしれないと思って電話してみた。

 「勤務先は東京と書いてありますが、新聞社なら支局などの地方勤務もありますよね」と聞くと「支局は基本的に産経新聞がカバーしているので、日本工業新聞の東京本社編集局で採用されれば転勤はありません」との答え。その言葉を信じて、10月の入社試験に応募した。

 もちろん難関と言われていた新聞社に合格できると思っていなかったので、一応は住宅会社の内定はもらっていた。しかし、奇跡的に日本工業新聞から合格通知が届き、記者人生がスタートした。入社して1年後の85年3月には妻と結婚し、妻の勤務先に車で20分ほどのさいたま市(旧・浦和市)にアパートを借りて生活を始めた。

三人の子供に恵まれて

 すぐに子供にも恵まれ、86年7月に長男、87年11月に次男が誕生。95年6月には待望の長女も生まれた。当時から公務員である小学校教諭は子育てしやすい環境にあった。産休や育休などの制度がきちんと整備されているだけでなく、周りに女性教諭の同僚も多いので困りごとの相談にも乗ってサポートしてくれる。

 長男の出産3か月前の86年4月から産休に入って、出産後に産後休と育休を合わせて1年経った7月下旬は小学校がちょうど夏休みになったばかり。一応、復帰手続きは取ったが、8月下旬にはタイミング良く次男の産休に入った。結果的に2年半以上も連続して休みを取得し、88年2月に職場復帰して、共働きの子育てが始まった。

 夫婦共働きでの子育てでは、祖父母が孫の面倒を見るケースが多いと聞くが、私の実家は札幌。公務員だった妻の両親は川越市の郊外に住んでいたが、万一の時に義母に来てもらうにしてもバスと電車で片道2時間はかかった。その両親も1992年に定年退職して故郷の安曇野市(長野県)に移住してからは、夫婦2人だけの子育てとなった(非常事態で長野から義母に来てもらったことが何度かあったが…)。


日本工業新聞社での働き方とは?

 夫婦2人だけで3人の子育てが可能だった最大の理由は、2人の「働き方」の違いにあった。私が勤めていた日本工業新聞は日刊紙だが、夕刊がなく、日曜日は休刊だった。産経新聞やサンケイスポーツなどと輪転機を共用していたため、早版の原稿締め切りは15時頃で、夕方には印刷が始まる。さらに後版の原稿締め切りは19時頃で、印刷開始は21時頃。月1回程度の夜勤もあったが、正規の勤務時間は10時〜19時(昼休は含まず残業1時間を含む)となっていた。

 とは言え、新聞記者の勤務時間などあって無いようなもの。いわゆる「夜討ち、朝駆け」も当たり前で、取材となれば土日も関係なく働かざるを得ない。イザというときに現場にすぐに駆け付けようとすれば、本社または記者クラブに詰めることになる。勤怠管理は基本的に記者本人に任されていたが、真面目にやればやるほど家に帰れなくなる。

 ただ、記者の勤務評価は最後は良い記事を書いたかどうかで決まる。昼間は記者クラブのソファで居眠りしていても、締め切り時間までにキチンと原稿を出していれば、上司からとやかく言われることもない(最近は結構うるさいようだが…)。やり方次第ではあるが、成果主義が通用する職場だった。

小学校教諭の働き方は?

 妻の勤務時間は8時〜17時の9時間。公務員なのでビシッと時間が決まっているように思われるかもしれないが、学期中は学校行事や生徒指導などで、とにかく雑用が多い。朝は7時に家を出て、7時半ぐらいから父兄から連絡などが入り始め、8時過ぎから生徒が登校してきて、授業、給食までは息をつく暇もないという。給食を食べた後は、少し子供たちの集中力が切れるので、体育や音楽など体を動かす授業を入れるらしい。

 勤務時間中には授業の準備や成績をつける時間がほとんど取れないため、学校に夜20時、21時まで残るか、家に持ち帰って仕事をするか。かなりの長時間労働を強いられているのが実情だ。最近では夏休み期間中も「教員は休みを取りすぎている」との批判を気にして通常通りの勤務となっている。

 ただ、学校の良いのは大事な生徒を預かっていることもあって、バックアップを含めて人員体制が民間企業に比べて充実しているところだろう。急病などで休む場合も教頭などがカバーしてくれるし、長期の場合は臨時教員を派遣してくれる。教師が子育てで大変な時期には担任から外れて、時間に余裕がある音楽などの専科に配置してもらうことも可能だった。

夫婦の勤務時間のズレがポイント

 私と妻の勤務状況を比べると、勤務時間では2時間だが、コアタイムでは大きなズレがあることに気付いただろうか。妻にとって最も重要な勤務時間帯は朝から給食指導が終わる13時まで。子供たちに集中して学習してもらうためにも午前中は出来るだけ休みたくない。

 私の方は12時までにデスクに電話して当日の出稿予定を連絡し、15時までに原稿(当時はまだ紙)を渡さす必要があった。ただ、電話はどこからでもかけられるし、あとは締め切りにさえ間に合えば紙面に穴をあけることもなかった。

 88年2月に妻が職場復帰したあと、勤務時間帯のズレによって夫婦の役割分担が自然と決まていった。朝は2人とも6時には起きて、私が簡単な朝食を作って食事を済ませると、7時過ぎには妻が車で出勤する。そのあと子供2人と食事をして保育園にいく準備をし、8時半頃に自転車で保育園に送り、そのまま駅の駐輪場に自転車を停めて10時までに会社に出勤する。

 当初は2人の子供を一緒に預けられる保育園がなく、別々の保育園に預けざるを得なかった。幸い2つの保育園は自転車で5、6分しか離れていなかったが、自転車の前に次男、後に長男を乗せ、保育園に順番に送り届けるのに30分以上の時間がかかった。

 夕方は通常18時、1時間延長で19時までに妻が車で保育園に迎えに行き、帰宅する。私の方は夜中の0時近くにならないと帰らないので、妻と子供が夜をどのように過ごしていたのかは分からない。私の帰宅は夜中を過ぎることもしばしばだったが、翌朝はいつも通りに起きて朝食をつくっていた。

子供が熱を出したときの“裏技”とは?

 よく男の子は身体が弱く、育てるのが大変と言われるが、2人の息子たちも本当によく熱を出した。熱が出ると、すぐに保育園を休まなくてはならなくなる。義母がすぐに来てくれる時は良いのだが、頼れない方が多かった。その時には究極の“裏技”で切り抜けた。

 午前中は私が何とか都合をつけて自宅で子供の面倒をみる。妻は午前中の授業と給食指導が終わったら半日分の有給休暇を取得して13時過ぎに急いで帰宅してバトンタッチ。私は何食わぬ顔で締め切り前の14時頃に出社するという連携作戦だ。

 もう時効ということでお許し願いたいが、私の方は無断欠勤である。当時は自宅で熱を出した子供の面倒を男親が見ていることは上司や同僚にも言える雰囲気は全くなかった。12時までの電話連絡の時に「今、どこにいるんだ」とデスクに聞かれることもないので、出稿予定以外は何も言わずにとぼけていた。

 問題は午前中に記者会見や個別取材が入っている時だ。緊急の記者会見でポケットベル(当時は携帯電話がなかったので…)が鳴って呼び出されることもある。これをどう切り抜けるか。

 個別取材の時は、取材先には大変に申し訳ないのだが、適当な理由をつけて日程を変更してもらったことが何度かある。

 緊急の記者会見の場合、新聞業界には通信社というバックアップ機能がある。本来は記者クラブに記者を置いていない地方紙や業界紙向けに記事を配信しているのだが、一般紙や日本工業新聞でも通信社の記事を購入している。私の場合は日頃から時事通信社の記者とは仲良くして、午前中の会見記事を日本工業新聞の締め切りに間に合うように配信してくれるように頼んでいた。あとはデスクには適当な理由をつけて、通信社の記事を使ってもらった。

現場記者を続けられた幸運

 この裏技を使うために、日頃からデスクの信頼を得ようと真面目に(?)働いていたつもりではある。デスクが要求する原稿をコンスタントに書いて出稿するのはもちろん、裏技用にオリジナル原稿をストックしてイザというときには出稿できるように心がけていた。

 「発表ものは時事通信の記事を使ってください。オリジナル原稿を書くのに忙しくて、手が回らないので…」と言えば、デスクも何も言わずに了解してくれていた。

 上司や同僚、さらに取材先にまでウソをつくことは本当に心苦しかったが、そうでもしなければ熱を出した子供を誰も預かってくれない。仕事よりは子供の命の方が大事だからと割り切るしかなかった。同時に、子育て期間中は、日本工業新聞で何とか現場記者を続けようと思っていた。

 一人前の編集記者になるには、原稿を読んで見出しを付けて紙面に割り付けする「整理記者」を1、2年は経験しなければならなかった。取材記者も10年が過ぎるとデスクに昇格する人事が行われる場合もあった。しかし、いずれも本社内に拘束される時間が増えて、裏技は使えず、子育てには支障をきたす。

 1990年代半ばには、日本工業新聞の経営が悪化し、人員削減のために産経新聞への異動募集もあったが、応募は諦めていた。2000年末に退社するまでの16年間、日本工業新聞で現場記者だけで働かせてもらえたのは幸運だった。

「子育てが楽しかった」と妻に振り返ってもらえるか

 見出しで「男親の子育て話」と大袈裟なタイトルを付けたが、転勤のない会社を選び、子供が熱を出したときに無断欠勤してもバレないように働いたというだけである。そんな働き方を真面目に働いている人たちができるはずはないし、真似しようとも思わないだろう。ただ、そうでもしなければ私たち夫婦が共働きで3人の子育てはとても無理だった。

 最近の現役記者を見ていると、30年前に比べて本当に忙しそうにしている。記事を書くだけでなく、いろいろと雑務があって大変なのだろうと思うし、原稿の執筆量も増えているのだろう。たまに役所に行って幹部クラスと面談すると「最近の記者さんは取材にあまり来なくなった」という話も出るくらい。もう少し時間に余裕がある方が良い記事も書けるのではないかなあと思うのだが、それも難しい時代になっているのだろう。

 ITが進化してGPSで居場所も特定されるようになれば、もう私のような働き方は無理であるのは明らかだ。では、これからの日本で、子育てのために男親の働き方を変えることができるのか。男親の働きを変えないままに、母親の子育て支援をいくら充実しても、母親の負担が少しは軽減されるぐらいで、大変であることに変わりはない。

 冒頭に述べたように、子育ての中心は母親であって男親はサポート役でしかないが、サポート役がしっかりしないと働く母親が大変になるばかりだ。妻のように「子育ては大変だったけど、本当に楽しかったわね」と笑って振り返ってもらえるか。それだけで良いのだと思うのだが…。