ジャーナリズムについて少し考えてみた。それほど信念を持って記者をやっているわけではないのだが、ジャーナリズムは「民主主義」を支える役割を担ってきた。それが問われていること自体、日本の民主主義が岐路にあると思うからだ。国民も、為政者も、メディアも、そして記者自身が「民主主義」を尊重しなくなれば、ジャーナリズムは劣化していく。何やら国家、宗教、民族などの対立ばかりが煽られ、所得・資産格差は拡大していくばかり。ますます「個人」が息苦しさを感じる社会になっている。もっと明るく伸び伸びと「個人」が生きられる社会のためにジャーナリズムはあるのではないのか。

メディアってヤクザな商売?

「なんで新聞社みたいなヤクザな商売につくんだ!」―私が大学を卒業して新聞社への入社を決めた時、両親から言われた言葉を鮮明に覚えている。大学までは建築学科で学び、たまたま大学に来ていた求人票を見て、冗談半分(?)で就職試験を受けたら合格して日本工業新聞(現・フジサンケイビジネスアイ)で経済記者になった。

 「海外を含めて支局は産経新聞の記者がカバーしており、日本工業新聞では転勤はありません」―。入社の動機も、当時、結婚を決めていた妻が小学校教諭の仕事が続けられる「転勤のない仕事」という第一条件に合致していたから。入社前に聞いた人事担当者の言葉通りに退社するまでの16年間、一度も転勤がなかったことには本当に感謝している。おかげで共働きで3人の子どもを育てることができた。

 そんな経緯で、新聞記者になったのだから「ジャーナリズムとは何か」を真剣に問い続けてきたわけではない。大学でジャーナリズム論を学んだこともなければ、それに類する本を読んだこともない。そんな自分が30年間、曲がりなりにも記者生活を送ってきたのである。

ジャーナリストを名乗ってはいるが…

 私を経済記者に育ててくれたのは、第一に企業の経営者や広報担当者、官僚、消費者、投資家、政治家など多くの取材先の方々である。新聞社を退社してフリーランスになった2001年以降も取材に応じてくれる人がいてくれるから記者を続けられてきた。

 記者としての心構えやノウハウを教わったのは、日本工業新聞や記者クラブなどで出会った他のメディアの先輩記者の方々からだ。いまも日本不動産ジャーナリスト会議やIT記者会などの場で仲間の記者からは多くのことを教えていただき励ましてもらっている。

 私自身は、日本工業新聞を退社したあと、特定のメディアに所属せずにフリーで細々と記者活動を続けてきた。名刺には一応「ジャーナリスト」とは印刷しているが、別に「ライター」でも「レポーター」でも取材できれば構わないと思っている。本来はジャーナリズムが担うべき社会的役割を果たそうと取材活動している人が名乗るべき肩書きである。新聞、テレビなどメディアに在籍した経験がなくても、ジャーナリストとして活躍している人はたくさんいる。

ジャーナリズムを担うのは誰か

 一般的に報道機関がジャーナリズムを担っているように言われるが、実際に担っているのは「個人」だろう。情報を広く発信するためには新聞やテレビなどのメディアを通じて行う必要があるが、問題意識を持って取材活動を行い、記事を書いたり、映像を撮ったりするのは記者「個人」だ。そのネタ元となる取材先との関係も「個人」的なつながりに依存する部分が大きい。

 記者の取材では、金銭的なやりとりが発生しないのが普通だ。経済記事の取材先は忙しいビジネスの時間を割いて会ってくれるわけで金銭を要求されてもおかしくないと思えるが、基本的に無償で対応してくれる。そうして取材させてもらっても、記事にするかどうか、どの部分を記事にするか、どのような書き方で記事にするかは記者次第だ。原則として掲載前に取材先に記事を見せることもない。

 それでも記者の取材を受けてくれるのは、ジャーナリズムが民主主義社会にとって重要な役割を果たしているとの認識を共有できていたからだと思う。取材先に「なぜ取材に応じてくれないのか」と聞くことはしばしばだが、「なぜ取材に応じてくれたのか」とは聞かないので、本当のところは判らないのだが、勝手にそう解釈してきた。

 民主主義の社会で生きる「個人」は、家族や友人、地域や社会とともに幸せに暮らしていくために、自ら考え、自ら判断できるだけの情報を多く得る必要がある。そうした社会を維持していくために、多くの「個人」が記者を信頼して取材に対応してくれている。記者の役目はそうした「個人」に対して地道に取材をして情報を発信し続けることだろうと思っている。

記者の仕事は情報のウラを取ること

 いまやインターネットには様々な情報が溢れているが、情報を取材して正確に発信するのはそう簡単なことではない。記者の仕事の大半は「情報のウラを取る」ことだ。その情報がどのような背景で発信されたものか、本当に正しい情報なのか、情報が発信された真の狙いは何か…。「ウラ取り」がある程度のレベルで行えるようになるまでには、訓練と経験が必要だ。企業の経営者、官僚、政治家など百戦錬磨の強者を相手にするわけで、ウラ取りには時間もコストもかかる。

 重要なのは、地道にウラ取りができる記者をいかに育てるか。そのための訓練や経験は現場に出て実践を積むしかない。私自身は、日本工業新聞や記者クラブで一緒になった他紙の先輩記者に心構えやノウハウを教えていただいた。若い頃に世話になった企業の経営者やベテラン広報にも、ジャーナリズムの大切さを理解して若い記者を育てようという配慮が感じられた。

 記者は必ずしも味方となるわけではないが、決して敵でもない。日本国民として日本社会の今の姿を映す鏡でありたいと思っているだけだ。記者自ら鏡を磨く努力を怠らないのは当然だが、正確な情報を発信できる記者を育てることが結果的に社会にとってもプラスになると評価してもらえるように取材活動に取り組んでいるつもりである。

メディアの役割とは何か

 新聞社、テレビ局、出版社、さらに記者クラブなどの「組織」の役割は何か。もともとは記者「個人」がジャーナリズムを発揮して自由に取材活動ができるように外部からの様々な圧力や誘惑から記者を守ることである。そうした外部からの経済的な圧力をはね退けるために、メディア機能を活かした広告や宣伝などの様々な収益事業も行っているわけだが、毎日新聞や朝日新聞などではいまや不動産事業が大きな収益の柱になっているとも聞く。

 メディアが巨大化し、社員の給料も高額になっていくと、「個人」よりも「組織」を守ることが優先されるようになってきた。本来はジャーナリズムを追求する記者も商売のための道具となり、商品となりそうな情報ばかりを追いかけ、場合によってはスポンサーの喜びそうな情報を取材してちょうちん記事を書く。記者がタレント化してテレビや講演会などで活躍するようになる。

 1970年代後半頃からメディアが「第四の権力」と言われるようになった時点で、すでに危険な兆候は出ていたのかもしれない。編集作業を通じて情報を取捨選択したり、解説を加えたりすることで世論を形成しようという意図が働くようになっていく。時には作為的に情報を操作して社会を誘導することも行うようになる。私の両親が言った「ヤクザな商売」というのもあながち的外れではない。

「取材先」か「お客様」か

 ジャーナリズムは、そもそも商売とは縁遠いものだ。新聞社やテレビ局のように、広告代理店、PR会社、不動産業などの収益事業を副業として行わなければとても食っていけない。そのことはフリーになる時に分かっていたことで、私自身も「二足」以上のわらじを履こうと思っていたのだが、いざ1人で活動を始めてみると、とにかく居心地が悪い。

 ジャーナリストと名乗る一方で、広告やPRの商売をするのはどう考えても無理がある。「取材先」と「お客様」が同じでも、新聞社のように「編集局」と「営業局」とが分かれていればよいのだが、一人二役は私にはできなかった。

 では「取材先」と「お客様」が異なっていればどうか。私自身は建設、住宅、不動産分野でジャーナリスト活動を続けたいと考えていたので、建設、住宅、不動産分野の関係者とは「取材先」として付き合い、その他の業界は「お客様」対応でも良いと思って、IT関連では広告や調査関連の仕事も請け負ってきた。とは言え、建設、住宅、不動産分野で手広く取材活動しながら、他業界でも積極的に営業活動するのは難しかった。

原稿執筆だけでいくら稼げるのか

 結局、最近は原稿執筆にほぼ専念する状態になってしまった。しかし、原稿料は相変わらず安い。私のようなフリーのベテラン記者に来る依頼は、あちらこちらに取材に出向いて1本の原稿をまとめるといった手間がかかる仕事が多い。ほとんどは署名記事なのであまり適当な記事を書くわけにもいかない。もともと遅筆なので出稿量は週に1〜2本が限界。一度書いた記事の使い回しも難しい。

 原稿料の相場は千差万別のようだが、私のような名前が売れていない記者であれば、ウェブの記事は1本1万5000円〜2万円。経済雑誌の原稿料はページ2万円。テレビ出演のコメント料は1回1万〜1万5000円。雑誌への取材協力費も1回5000円〜1万5000円。経済関係の本は1万部売るのも大変な時代で、定価1300円で印税8%、初版6000部として原稿料は60万円程度だ。

 出稿量と原稿料から計算すれば見当が付くと思うが、取材交通費や通信費などの経費を除いた現在の私の収入は、新聞社時代の1/4〜1/3程度だ。当時、産経新聞系の給料は、テレビ局、読売、朝日、日本経済新聞などの半分と言われていたので、今、同世代の給料と比べたら私の収入は1/10程度かもしれない。

 「その程度しか稼げないのなら、いつまでも未練たらしく記者にしがみ付いていないで、さっさと商売替えして消えたら!」と取材先にバカにされるのがオチだろう。ただ、取材先からは、カネをもらっていないので遠慮なしに何でも記事に書けるというだけである。広告・宣伝、不動産事業など収益事業の才覚がない限り、ジャーナリズムで稼げる収入など微々たるものである(私が知らないだけかもしれないが…)。

日本のジャーナリズムを育てるのは誰か

 最近ではインターネットのソーシャルメディアには、メディア批判が溢れている。中には「マスコミ+ゴミ=マスゴミ」と罵る表現も良くみかけるが、ジャーナリズムを担う「個人」を守るよりも、高額の給料を得る「組織」を守ろうとしていることを見透かされているからだろう。彼らも生活がかかっているのだから仕方がないと言うかもしれないが、では誰が日本のジャーナリズムを担っていくかである。

 残念ながらジャーナリズムを担う「個人」を支援する民間「組織」はほとんど見当たらない。言論NPOのような非営利団体も出てきているが、新聞やテレビのような役割をカバーするのは難しいだろう。ウォールストリートジャーナルやロイターなどの外資系メディアに頼るという手もあるが、日本の民主主義が脆弱であることを白状しているようなものである。

 別に開き直るわけではないが、ジャーナリズムが日本社会の今の姿を映す鏡であるなら、一億総「マスゴミ」化しているのは日本社会なのかもしれない。メディアやインターネットに流れている情報がどこまで「ウラ取り」された情報なのか。大本営発表だけで日本の針路を誤ることはないのか。国民がメディアに対して厳しい批判を浴びせるのは自由だが、その一方で優秀な若い記者「個人」を育てたり、記者の取材活動を支える「組織」を応援することをぜひお願いしたい。やはり日本のジャーナリズムを救えるのは、ひとりひとりの「個人」であると思う。

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