明治5年(1872)に創業を開始した富岡製糸場(群馬県富岡市)が7月12日、世界遺産へ推薦されることが決定した。日本の近代化の礎を築いた産業遺産を世界遺産に登録しよう!と、群馬県が正式に活動を開始したのは2003年のこと。世界遺産候補として2007年に国内暫定リストに掲載され、他の候補に比べて推薦状づくりが進んでいることが評価されて今回の推薦が決まった。2014年の登録をめざす。 ――09年7月に群馬県庁世界遺産推進課の土屋真志さん(現在は農政部蚕糸園芸課)に世界遺産登録への取り組みをインタビューして雑誌に掲載しました。世界遺産に関係する部分を再編集し、“ものづくり立国・日本”のルーツが世界遺産に登録されることを期待して、MKSアーカイブとして掲載します。

「世界遺産」というブランドの魅力

 日本で「世界遺産」が注目されるようになったのは「平成」に入ってからで、まだ20年ほどのことだ。1972年にユネスコ(国連教育科学文化機関)で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」に、日本が批准したのは1992年。翌93年に日本でも文化遺産として「姫路城」と「法隆寺地域の仏教建造物」、自然遺産として「屋久島」が世界遺産に登録されて、一気にブームに火がついた。

 「加盟国の中でも、最初に条約に批准した米国ではあまり騒がれていないようですが、それに比べると世界遺産に対する日本人の関心は非常に高いですね」 群馬県では2003年から世界遺産の運動をスタートしているが、土屋さんはそのブランド力の大きさを実感したという。世界遺産に登録されれば、テレビなどのメディアも頻繁に取り上げるようになり、観光客も飛躍的に増える。その経済的効果は計り知れないだけに、運動に力が入る。

 土屋さんにインタビューしたのも、群馬県庁ではなく、東京・銀座だった。歌舞伎座に程近い晴海通りと昭和通りの交差点角に建つぐんま情報総合センター「ぐんまちゃん家(ち)」で、ボランティアの人たちと一緒に「富岡製糸場と絹産業遺産群」の写真展を開催していた。「ボランティアの方々には、全国各地でこうしたイベントを開催するなどで年間延べ170日も協力いただいています」と、日本全体に支援の輪を広げようと東奔西走している。

産業遺産に脚光―近代工業国家ニッポンのルーツ

 「よく『富岡製糸場は世界遺産になれるんですか?』と聞かれるのですが、なれるかどうかではなく、世界遺産にするか、しないかです」
 現在、世界中で登録されている世界遺産は、文化遺産689件、自然遺産176件、複合遺産25件を合わせて890件(2009年7月現在)。うち日本国内では文化遺産11件、自然遺産3件の計14件が登録されている。
注)その後、2011年に文化遺産として「平泉‐仏国土を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」、自然遺産として「小笠原諸島」が加わって計16件となった。

 国内の文化遺産をみると、姫路城、法隆寺のほか、古都京都の文化財(1994年登録)、白川郷・五箇山の合掌造り集落(95年)、原爆ドーム(96年)、厳島神社(同)、古都奈良の文化財(98年)、日光の社寺(99年)、琉球王国のグスク及び関連遺産群(2000年)、紀伊山地の霊場と参詣道(04年)、石見銀山遺跡とその文化的景観(07年)があるが、原爆ドームを除けば、明治維新以前のものばかりで、古い寺社仏閣が大半を占める。

 「実は群馬県には、国宝に指定された文化財が1件もありません」 当初は、群馬県でも富岡製糸場が世界遺産となる可能性があるとは、あまり認識していなかったようだ。しかし、世界遺産委員会が産業遺産についても考慮する方針を打ち出したことで、日本近代史に詳しい県職員の松浦利隆さん(世界遺産推進課長)の発案で検討を開始。日本の産業技術史の権威である国立科学博物館研究部の清水慶一氏に相談すると、力強いアドバイスが得られた。

 「近代工業国家ニッポンのルーツをたどれば、必ず富岡製糸場と絹産業に行き着く。産業革命発祥の英国でもアイアンブリッジ渓谷などの産業遺産を全て世界遺産に登録している。アジアで最初の近代工業国家となった日本が、そのルーツである富岡製糸場を世界遺産にするのは当然でしょう。そう言って清水先生が後押ししてくれました」

 群馬県では、2003年4月に松浦さんを中心に世界遺産推進室を立ち上げ、その年の8月25日に世界遺産の登録を目指して運動を開始することを正式に発表。土屋さんも組織立ち上げ時のメンバーとして運動に加わることになった。

殖産興業を支えた工女―職業訓練の役割も果たした富岡製糸場

 明治政府が近代国家をめざして富国強兵・殖産興業に取り組んだ時代、資源のない日本の近代工業の発展に大きく寄与したのは絹産業であるのは間違いない。それにも関わらず「学校の教科書でも必ず取り上げられていて、日本人なら誰もが知っているはずなのに、実際にその遺産を見た人は最も少ないかもしれませんね」と、土屋さんは残念がる。

 背景には、映画「あゝ野麦峠」などで女工哀史の暗いイメージが絹産業に定着してしまったことが少なからず影響しているだろう。インタビューの時も、記者が何気なく女工哀史の話題を口にすると、土屋さんは「絹産業の話をすると、必ず出てくるんですよね」と苦笑しながら、製糸工場で働いていた「工女」について語り始めた。

 「あの時代、日本が欧米列強からの干渉を排除して独立を維持するために、男は兵士、女は工女になって日本を支えたのです。確かに、あゝ野麦峠に書かれていたような悲しい出来事もありましたが、9割方の工女は誇りと自信を持って製糸場で働いていました。一等工女になると家を建てられるほどの年収が得られたと言います。富岡製糸場で働いて技術を習得し、日本各地の製糸場で技術指導する工女もいました。職業訓練学校の役割も果たしていたわけです」

 3K(危険、汚い、きつい)職場といった造語までつくられてしまう現代から見ると、明治時代に工女たちが劣悪な労働環境で働かされていたというイメージを持ってしまいがちだ。しかし、そうした時代を経て、日本は世界有数の工業国として発展したのも事実である。富岡製糸場の世界遺産登録が実現すれば、日本の近代化に多大な貢献をした絹産業の輝かしい歴史を再評価する良い機会になると期待される。

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