米アップルコンピューター社のスティーブ・ジョブズ氏が10月5日に死去して世界中が大騒ぎだった。1980年代後半にコンピューター担当記者だった自分にとって、彼は超有名人ではあったが、すでにアップルの経営からは外れていて接点がなかった。アップルで思い出すのは「米ゼロックス社が、アップルに対してコンピューターのグラフィッカルユーザーインターフェース(GUI)の著作権を主張する準備を進めている」という記事を1990年に書いたことだ。記事が掲載されると、アップルとGUIの著作権訴訟を展開していたマイクロソフトから電話があり、「事実とすれば世界的なスクープだ!」と興奮した様子だった。1年後に同じ内容の記事を日経産業新聞が一面トップで掲載。その後、パソコン市場はマイクロソフトのWINDOWSが席巻し、経営危機に陥ったアップル再建のためにジョブズ氏が1997年に復帰することになる。現在も、アップルと韓国サムスンで特許紛争が続いているが、今度はどのような結末となるのだろうか?

ジョブズ氏のNeXT社にキヤノンが出資した裏事情

 人間、何かのキッカケで忘れていた昔のことを思い出す。ジャーナリストのジャーナルとは“日誌”の意味であり、第三者から見た歴史を書き残すことがジャーナリストの役割だと思っている。ジョブズ氏を直接取材した経験はないが、ジョブズ氏やアップルに関連して少し思い出したことを記録として残しておく。

 ジョブズ氏は、1985年にはマッキントッシュの販売戦略の失敗でアップルを追われていた。私が担当だった頃のアップルの経営トップは、ジョン・スカリー氏だったという記憶しかない。日本でジョブズ氏が再び話題になったのは、アップルの後に立ち上げたNeXTコンピューター社に、キヤノンが1989年に出資し、新型パソコン「NeXTstation」を販売することになった時だった。

 当時、キヤノンのソフトウエア部門の担当取締役は、のちにセル生産方式の考案で有名となり、経営本も数多く出版しているキヤノン電子社長の酒巻久氏だった。キヤノンは広報のガードが固く、なかなか取材できなかった記憶があるが、酒巻さんとはなぜか良く会っていた。プライベートな話も良くしたが、ある時、雑談で私が「中古ですが、住宅を購入しました」と言うと、すぐに新築祝いに素敵な花瓶が自宅に贈られてきて驚いた思い出がある(今も大事に使わせていただいている)。

 すでに世界のパソコン市場はIBM PCが全盛となっていた。キヤノンが「なぜ、NeXTコンピューターに出資したのか?」と不思議に思って、酒巻さんに理由を聞いたことがある。キヤノン販売(現・キヤノンマーケティングジャパン)が長年、日本でのアップル総代理店だったこともあり、ジョブズ氏の才能を評価したからかと思いきや、キヤノンが次期主力商品として88年に製品化したばかりの光磁気ディスク装置をNeXTstaionが全面採用したからだと裏事情を話してくれた。その口ぶりから酒巻さん自身、NeXTコンピューターをあまり評価している印象は受けなかった。その後、NeXTは技術面ではいくつかの話題を提供したが、ビジネス的には失敗に終わった。

大成功だった日本初開催の「マックワールド・エクスポ東京1991」

 アップルのパソコンには、当時から世界中に多くのファンがいた。日本でも1991年にフジサンケイグループ主催でマック関連製品の展示会「マックワールド・エクスポ東京」を立ち上げることになった。事務局となった日本工業新聞で米国の展示会の盛況ぶりをレポートするため、91年1月に私はマックワールド・エクスポ・サンフランシスコの取材に出かけたが、何と米国滞在中に湾岸戦争が勃発。テロの危険が高まったために、米国でしばらく足止めを食った。

 少々脱線するが、湾岸戦争の開戦直後に、シリコンバレーのインテル本社でたまたま単独インタビューの予定が入っていた。インテルは、パソコンの心臓部であるマイクロプロセッサー(MPU)で圧倒的な世界シェアを持っていたが、当時、それらを米国、欧州、そしてイスラエル・エレサレムの3工場で生産し、世界中に供給していた。当初の取材テーマは、景気後退が始まっていた米国経済情勢についてだったが、イスラエルへの攻撃が始まっていたため、急きょエレサレム工場での生産状況と、MPUの供給責任をどう果たすか?などの対応策を聞いて日本に記事を送信。あまりにタイミングが良すぎて話題になった。

 本題に戻ると、日本で開催したマックワールド・エクスポ東京も大成功だった。アップル製パソコンの人気は、当時からデザイン性と操作性にあった。とくにアイコン(絵文字)とマウスなどのポインティングデバイスを使って直感的にパソコンを操作できるようにしたGUI(グラフィカルユーザーインターフェース)を他社に先駆けて搭載したのが特徴だった。その後、マイクロソフトも、パソコン用基本ソフトMS-DOS上で動作するGUIを開発。1990年には、WINDOWS3.0の供給を開始して本格展開しようとした時期に、アップルがマイクロソフトに対してGUIの著作権侵害を訴えるという対応に出たのである。

ソフトウエアの知的財産権はどう保護されるべきか

 80年代のコンピューター担当記者にとって最大の取材テーマは、コンピュータープログラムの知的財産権(当時は知的所有権と言っていた)問題だった。1982年にIBM産業スパイ事件が発覚して以来、互換機ビジネスを中心にして知的財産権の保護をどうするかが大きな課題となっていた。日本のコンピューター産業にとっても、富士通や日立製作所がIBM互換機ビジネスを継続できるかどうかが大きな関心事であり、1989年にIBMと富士通の著作権紛争が最終決着するまで様々な議論が展開された。

 日本では、通商産業省(現・経済産業省)が自ら所管する特許権に準じたプログラム権という新しい枠組みで、コンピュータープログラムの知的財産権を保護すべきと主張していた。一方で、米国側は著作権による保護を主張し、日本でも文部科学省が著作権での保護に前向きで、国内でも激しい論争が展開されていた。結局、米国政府の強い働きかけで世界的にも著作権による保護が大勢となり、日本でも著作権の枠組みの中でソフトウエア開発が求められるようになった。

 未来計画新聞でも、IBMと富士通の著作権紛争について、富士通の交渉責任者であった鳴戸道郎元副会長(1935〜2009年)が伊集院丈のペンネームで2007年11月に出版した「雲を掴め〜富士通・IBM秘密交渉」について記事を書いたことがある。その後、鳴戸さんが死去する半年前の08年12月に「雲の果てに〜秘録富士通・IBM訴訟」を出版し、知的財産権を巡るIBMとの死闘を書き残した。その本の中でIBMの著作権侵害を回避しながら互換プログラム開発を行うために様々な工夫と努力を積み重ねてきたことが書かれていた。

 確かに開発企業の知的財産権は保護されるべきである。しかし、IBMと富士通の著作権紛争でも互換ビジネスが完全に否定されたわけではない。とくにユーザーが保有するプログラム資産やITリテラシーを保全する観点から、互換製品には重要な役割を果たしている側面があった。

GUIの発祥はアップルではなくゼロックスのPARC

 自動車の基本的な運転操作がどの自動車メーカーでも同じであるように、パソコンなどのユーザーが使用する機器の基本操作性は共通していた方がユーザーにとっては都合が良い。当然、パソコンの基本操作に関わるGUIが著作権保護の対象になるとは、富士通・IBM訴訟を通じて知的財産権問題を取材してきた私自身は考えていなかった。それだけにアップルがマイクロソフトをGUIの著作権侵害で訴えたというニュースを聞いた時には驚いた。

 真っ先に疑問に思ったことは、「アップルの訴訟をゼロックスがどう考えているか?」であった。多少、コンピューターの歴史を調べたことのある記者であれば、GUIそのものはゼロックスのパロアルト研究所(PARC)で「パソコンの父」とも呼ばれるアラン・ケイ氏のアイデアによって誕生したことは知っている。確かにパソコンに実装したのはアップルが最初だったかもしれないが、訴訟を通じてGUIがアップルの知的財産と認められてしまえば、ゼロックスにとって得られる利益を逃すばかりか、将来のビジネスの障害にもなりかねないと思えたからだ。

 しばらくして、富士ゼロックスでソフト部門の担当取締役だった上谷達也氏を取材する機会があった。私は事務機器中心の富士ゼロックスの直接の担当ではなかったが、東芝出身でITの専門家であった上谷さんには何度か取材させてもらっていた。上谷さんは、その後常務を経て、富士ゼロックスとPARCで米国に設立したマルチメディアIT研究所のFXPAL社のCEO(最高経営責任者)を務めるなど、PARCの技術者とも緊密な交流があった。

アップルの訴訟がゼロックスの寝た子を起こした!

 「アップルがマイクロソフトをGUIの著作権侵害で訴えましたが、どう思いますか?もともとGUIは、PARCが発祥ですよね。それをアップルが著作権を主張するなんて、おかしいと思うんですが…」と聞くと、たまたまPARCに出張して帰国したばかりの上谷さんが驚くような話を始めた。
 「私もそう思ってPARCに聞くと、もともとGUIに著作権が認められるなんて、彼らも考えていなかったと言うんだ。ところが、アップルがGUIの著作権を主張し始めたので、彼らも権利意識に目覚めたらしい。PARCでも、GUIに知的財産権が主張できるかどうかを検討することにしたと言っていたよ」
 アップルの訴訟はまさにゼロックスの寝た子を起こしてしまったのである。

 本来なら、事実関係をゼロックス本社か、PARCに確認するべきなのだろうが、訴訟を起こすまでは正式に認めるとは思えなかった。「まあ、上谷さんが言うのなら間違いないだろう」と、記事を書いて掲載した。情報・電機面のわずか3段見出しの小さな記事だったが、マイクロソフトからの電話で、彼らがアップルとのGUI訴訟の対応に苦慮していたことが推察された。

 その後、私は91年2月にコンピューター担当から金融担当に代わったので、GUI著作権訴訟の経緯は追いかけてはいない。1年後ぐらいに日経産業新聞がデカデカとこの問題を報じていたので、私が書いた記事は間違いではなかったようだ。別にマイクロソフトを援護するために記事を書いたわけではなかったが、結果的にその後のパソコン市場は、マイクロソフトのWINDOWS全盛時代を迎える。誰もが簡単に操作できるGUIの搭載とインターネットの普及が、パソコン市場を一気に拡大させたことは間違いないだろう。

カリスマ経営者の20年後の評価はどうなっているだろうか

 1995年にマイクロソフトのWINDOWS95が登場すると、アップルはますます厳しい状況に追い込まれ、1997年に再びジョブズ氏を呼び戻すことになる。その後のジョブズ氏の活躍振りは、メディア報道を通じて知る程度だが、音楽端末機器(iPod)とコンテンツ配信サービス(iTunes)を組み合わせたビジネスモデルはまさに革新的であった。さらに、スマートフォン市場をiPhoneで一気に開花させたことも賞賛されることだと思う。

 ただ、アップルが、スマートフォンでもサムスンを相手に特許侵害で訴訟を始めたと聞いて、20年前のアップルとマイクロソフトのGUI訴訟を思い出した。スマートフォンは今後、誰もが利用することになるであろう携帯端末であり、より使いやすい操作性を実現すべく進化することが期待されている機器だ。アップルとしては、20年前の失敗を繰り返さないために先手を打っているのかもしれないが、20年後、スマートフォン市場にどのような影響を及ぼしているだろうか。

 カリスマ経営者としてスティーブ・ジョブズ氏に関する記事は数多く書かれていて、今日もジョブズ氏の特集を掲載した経済雑誌が発売されたようだ。絶頂期に死去したことで、メディアも話題に飛びついて、彼の功績を賞賛する記事や特集が組まれているのだろう。ただ、個人的には、20年後にジョブズ氏がどのように評価されているかの方が興味がある。

 蛇足だが、私自身、当初はマックユーザーだった。個人で初めて使ったパソコンはNECの初代ラップトップパソコン「PC-98LT」だが、NEC元専務の高山由氏から新築祝いでいただいたものだった。産経デジタル社長の近藤哲司氏が当時は98LTのヘヴィユーザーで、いろいろと使い方を教えてもらったのだが、使いこなせずにお蔵入りに。次に自ら選んで購入したのは、マッキントッシュの低価格モデル「パフォーマ」で、2000年頃まで自宅で使っていた。ただ、新聞社を辞めて自宅で仕事を始めると、結局はWINDOWSパソコンを使わざるを得なくなったが…。

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