【建設】経済記者から見た建築家(6)―建築家は何をめざすのか?(2001-09-05)

 私自身、建築学科を卒業しながら、ひょんなキッカケで新聞記者という商売を選択し、はからずも「文章を書くこと」が生業となってしまいました。

 

 ろくに文章を書く訓練を受けたこともなければ、あまり本も読まないような人間に、果たして記者なんか勤まるのか?とも思ったのですが、「案ずるより生むが易し」とはよく言ったものです。毎日、毎日、原稿用紙と格闘しているうちに、記事を書くコツやパターンを覚え、「勧進帳」(原稿の締め切り間際などに、簡単なメモを見ながら電話で口頭で記事を送る)といった技も身についてきました。

 新聞記事は、できるだけ判りやすく、平滑な文章で内容を伝えるという役割を担っています。もともと何事にもあまり“こだわり”を持たない性格でしたので、とりあえずは新聞記事の文章スタイルのパターンに当てはめて、読者に判りやすくて、サラリと読める文章だけを心がけてきました。

 そんなことを10年以上続けてきたわけですが、一口に「読者に判りやすく、サラリと読める」と言っても、満足のゆく文章はなかなか書けないものです。例えば金融・経済の話を、専門用語などを散りばめて“難解”に書くのは、ある意味で容易なことです。専門家の言ったことをそのまま文章にすれば良いわけですから…。これを、一般読者にもサラリと読めて、「何となく…」でも判ったような気にさせる(?)のは至難の業なのです。これからも試行錯誤の毎日が続くのでしょう。

 そんな私にとって皮肉なことに、これまでに出会った難解な文章の代表事例は、建築家の文章なのです。学生時代を通じて、小説やら、哲学やら、心理学、経済学の本など一通りは読んできた(読まされてきた…?)わけですが、建築家の文章には、何を言いたいのか判らないようなものも多く、結局、内容もあまり理解できない本が少なくありませんでした。もちろん、素晴らしい文章を書く建築家の方もたくさんいらっしゃいますが…。

 学生時代は、自分の建築に対する理解度が低く、文章の読解力がないのが理由だと考えていました。さらに著名な建築家が設計した建築物についての論評を読んだり、聞いたりしてもチンプンカンプンで、自分に建築を理解できるのかと、真剣に悩みました。実際にそれで建築の道をあきらめたとも言えます。

 しかし、今になって思うのは、建築家の本も、同じ専門家たちに向けた学術論文や専門技術書でなければ、建築に関心のある一般読者やこれから建築をめざす学生が読むことも多いわけですから、やはり平易で判りやすく書くべきではないのか?ということです。もちろん、建築家は、建築を設計・監理するのが仕事であり、文章を書くのはプロではないかもしれません。しかし、建築家が文化を担う存在であり、文化として建築を論じるのであれば、難解で人を煙に巻くような文章を書き、自己満足していて良いのかと思わざるを得ません。

 よく、建築に携わっている人から「日本は建築文化が未成熟だ」といった意味の発言を聞きます。小中学生の時から、もっと建築に対する造詣を深めるべき、と教育問題にまで発展することもありますが、そうした事態を招いた責任は、まさに建築家にあるのではないでしょうか。小学生や中学生にも建築のあるべき姿をやさしく説いたような本が、これまであったでしょうか。日本の建築文化を表現した本として、一般人も含めて広く読まれてきた本があるのでしょうか。そうした文章も書けない建築家を、文化の担い手とはとても言えないように思うのです。

 さらに深刻なのは、日本の建築文化を担うべき人材への大学教育のあり方です。大学にはなぜかしら、建築事務所出身者が母校の講師として顔を出しているケースが少なくありません。建築事務所の不安定な収入を補うための互助システムなのでしょうが、果たして彼らに学生に建築文化を伝えられるだけの見識と素養があるのでしょうか。

 著名建築家の中にも、大学教授に迎えられた方が数多くいらっしゃいます。著名建築家が全て優れた教育者ではありえないとは思いますが、建築文化の担い手である建築家が教壇に立つことも重要なことです。その時には、しばらく建築の創作活動を控え、日本の建築文化を幅広い見地から高めるための活動にも力を注いでいただきたいと思うのです。その折には、ぜひ、私にでも理解できる文章で書いていただけるようお願いいたします。