【建設】経済記者から見た建築家(5)―建築界のエリートとは?(2001-07-03)

 「官僚に、現状を打開するような画期的な施策を求めたって無理だよ。政治家や学者、それにジャーナリストといった人たちが本来、果たすべき役割じゃないの?まあ、そういう人たちだって全く機能していないしねえ…」―つい最近のこと、国土交通省の大物OB氏と議論していると、官僚バッシングにはもう辟易したって様子で、そんな言葉が飛び出してきました。

 

 確かに、国土交通省に限ってみても、談合・汚職疑惑に、公共事業批判、日本道路公団、住宅金融公庫などの特殊法人改革と、次から次と、批判の槍玉に挙げられ、少々気の毒な印象もあります。もともと彼らは法律の番人であり、法律に書かれた精神に則ったことしかできないのが建て前です。それが、官僚無謬(むびゅう)主義を貫いてきた彼らの存在証明みたいなものですから。

 冒頭の発言も、官僚自らがこれまでの施策の誤りを認め、180度の方針転換ができるような頭脳構造になっていない、といった意味なのでしょう。(本音では、官僚以外にまともな政策立案能力は持っていない、と思っているとは思いますが…)

 バブル崩壊後、エリート層と呼ばれてきた人たちに対する風当たりが一気に強まったという印象があります。従来型社会システムが機能しなくなれば、それらを維持してきた人たちに対する批判が高まるのは当然のこと。要は、エリート層がそうした批判を撥ね退けるだけのパワーを発揮し、新しい社会システムを構築できるかどうかが重要であるはずです。

 『エリート』=社会や組織の指導的地位にある階層・人々(広辞苑から)
 「欧米のエリート層は、絶えず社会からの批判と戦い続けているからこそエリートであって、自らの力で社会的な特権を勝ち取っている。日本のエリート層は、既得権に守られてきただけで、自らはほとんど戦っていない」(前述の国土交通省OB氏)―そんな薄っぺらな存在であることを、いまや完全に見透かされてしまったようです。

 バブル崩壊後、官僚も、ジャーナリストも、エリート銀行員も、随分、コテンパンにやっつけられてきているのですが、その批判に対して積極的に戦おうという姿勢があまり感じられません。たまに珍しく戦う意欲を見せても、「道路特定財源を守ろう!」とか、「記者クラブ制度を堅持しよう!」とか、とにかく既得権を守ろうという時ばかり。結局、何もせぬまま『失われた10年』が過ぎてしまいました。

 ところで、建築界におけるエリート=指導的地位にある人々とは一体、誰なのでしょうか?日本建築学会なのか、国土交通省住宅局の建築指導課なのか、エリート建築家なのか…。今ひとつ、よく判らない感じですね。指導的役割という意味では、『建築基準法』を所管している国土交通省の官僚ということになるのでしょうか。一応、国土交通大臣の諮問機関である建築審議会の先生方(大学教授や知識人や著名建築家など)の答申を得ていることになっていますから、そういう方々ももちろんエリートなのでしょう。

 ただ、建築界でも、従来のエリートがどれだけ指導的な役割を果たしてきたのかは首を傾げざるをえない面があります。無計画にスクラップ&ビルドを繰り返す都市、阪神大震災で発生した大量の瓦礫の山、談合や欠陥住宅などを生み続ける前近代的な産業構造―これまで多くの問題が指摘されてきましたが、その解決に向けたメッセージがほとんど社会に伝わっていないように思うのです。

 建築界でも、新しい試みが始まるのは、アウトサイダーと呼ばれる人たちからでした。しかし、既存勢力があまりに巨大すぎるためなのか、新しい変革の波は浸透せずに、頓挫してしまうケースがほとんどだったように思います。その原因はどこにあるのでしょうか?エリートと呼ばれる人たちも改めて考える必要があると思うのですが…。