【コラム】創造することの難しさ―美しい国づくりの挫折(2007-09-12)

 安倍晋三前首相が12日に突然の辞任を表明したあと、しばらく日本がフリーズしてしまったような感覚に陥った。あまりに唐突な辞任劇に唖然とした人も多いだろう。25日に福田康夫首相が就任するまでの間、やれ「派閥政治の復活」だの、「構造改革の路線変更」だの、ことさら後退感を強調する論調も多かった。後世に安倍首相という人がどう語り継がれることになるのかは判らないが、そもそも「なぜ、安倍さんが首相に選ばれたのか?」である。「美しい国づくり」は、安倍首相の退場とともに消え行く運命なのか?

 

”破壊型”構造改革を進めた小泉政権

 安倍首相には当初から一抹の不安があった。そう書くと安倍さんの力量を評価していなかったように思われそうだが、「小泉さんのあとは、誰が首相になっても大変そうだなあ」と、多くの人が感じていたのではないだろうか。だから福田さんも前回の総裁選への出馬を見送ったのだろう。小泉政権の5年間(2001年4月〜2006年9月)は、構造改革と不良債権処理のためにいろいろなものを壊せるだけ壊したとの印象があった。

 「構造改革」と言えば、世間的には小泉さんの専売特許になっているが、何をもって構造改革と言うかである。バブル経済崩壊後、1993年8月の細川政権発足で自民党が下野し、94年6月の村山政権で日本社会党と連立する形で政権に復帰。96年1月に発足した橋本内閣のあと、自民党はかなり前向きに行財政改革に取り組んできた。小泉さんが登場する前に、不良債権処理の基本的スキームや、中央省庁の再編、地方自治体の合併促進などの方針は決まっていたし、特殊法人改革のベースとなった行政改革大綱も2000年に策定されていた。

 構造改革のお膳立てがかなり整った絶妙のタイミングで、予想外の結果となった自民党総裁選挙によって小泉政権が誕生。「失われた10年」で待ったなしとなっていた構造改革に反対する人たちを”抵抗勢力”と切って捨てて突き進んだ。確かに構造改革の必要性は多くの人が認識していても実行できずにきたわけで、コイズミ登場の歴史的な意義があったと思われる。

 小泉さんが卓越していたのは、巧みなメディア戦術と、郵政民営化、道路四公団民営化といった判りやすい政策で国民の支持を集め、その力をバックに既得権益を次々に破壊したところにあった。郵政民営化では自分自身を、道路四公団民営化では猪瀬直樹氏を抵抗勢力と戦うヒーローに演出して見せたのも判りやすかった。

官僚の制御を可能にした2つの機能

 破壊のあとは、それに代わる新しい制度や仕組みを創造しなければならない。ただ、小泉さんは破壊することには熱心だったが、創造することにはあまり情熱が感じられなかった。郵政民営化、道路四公団民営化などの構造改革もトップ人事まで決めたあとは役所に任せきり。現実問題として官邸主導で断行できるのは「破壊」までで、「創造」するのはどうしても官僚たちを動かさなければならない。

 小泉政権において官僚を動かすのに重要な役割を果たしたのが、2001年1月の中央省庁再編後に内閣府に設置された経済財政諮問会議と、同年9月に首相補佐官に任命された大物官僚の牧野徹・元建設事務次官だった。

 経済財政諮問会議の前身は、98年7月の小渕内閣で首相の諮問機関として設置した「経済戦略会議」(議長・樋口廣太郎アサヒビール名誉会長)。このときのメンバーに奥田碩・トヨタ自動車社長(当時)、竹中平蔵慶大教授の2人がいた。01年1月の中央省庁再編後に経済財政諮問会議に衣替えし、小泉内閣では、担当の経済財政政策担当大臣に民間から竹中さんを抜擢。役所抜きで「骨太の方針」を策定して役所に具体的な施策を検討させるという新しい手法が導入され、当初はかなり上手く機能した。

 牧野さんの首相補佐官就任は、表向きは01年5月に発足した都市再生本部に関連する諸施策を担当するとなっていたが、道路四公団民営化など特殊法人改革に大いに力を発揮することになった。役人の弱点を知り尽くしている人物を味方に引き入れることで、毒を持って毒を制す作戦が見事に当たった。

 しかし、最初は新しいやり方に面食らっていた官僚たちも2〜3年もすると対策を講じ始め、経済財政諮問会議は徐々に形骸化が進んでいった。特殊法人改革や郵政民営化にしても、組織存亡の危機感を煽って改革を進めさせたが、新しい組織を立ち上げる段階で高速道路建設に歯止めはかからず、郵政民営化も肥大化が進みだしている。

美しい国づくりが評価される時は来るだろうか…

 破壊から創造へ―安倍さんも自分の政権の役割をそう位置づけていたように思う。だから「戦後レジームからの脱却」を進めて「美しい国づくり」に取り組むというメッセージを発信した。小泉時代には抵抗勢力として切って捨てられた人も含めて”再チャレンジ”していこうと訴えたかったのではないか。安倍さんのメッセージが、国民にどこまで伝わっていたかは疑問なところもあるが、内閣発足当時の支持率は60%を超えていたのは事実だ。

 言葉でいうのは簡単だが、破壊より創造の方が多くのエネルギーを必要とする。古い秩序を壊して新しい秩序を創造するにしても、最初から完璧なものをつくるのは不可能であり、その過程で制度の盲点を突いてホリエモンや村上ファンドのような事件も起きるし、偽装請負や格差の問題も生じる。それらにきめ細かく対応しながら新しい仕組みを構築するのは並大抵のことではない。

 「小泉さんのあとは、誰が首相になっても難しそうだなあ」と思ったのも、「創造するのは破壊するよりも圧倒的に難しい」という単純な理由からである。

 モノを創造するときに重要なのは「理念・哲学」と「現場」だろう。理念・哲学がなければイノベーションは起こらず、理念・哲学を掲げただけでは現場は機能しない。

 安倍政権には「美しい国づくり」という理念と哲学はあった。が、実際に現場を動かしている役所をどのようにコントロールしようとしていたのか。

 安倍内閣でも、経済財政担当大臣には民間人の大田弘子氏を起用し、経済財政諮問会議を活用するやり方を継承した。官邸には首相補佐官を4人(いずれも国会議員)配置して、官邸主導で政策を具体化するための優秀な人材を中央省庁を含めて幅広く募集し、数多くの政策委員会を立ち上げた。基本的に小泉流を踏襲したと言える。

 これらの政策委員会は、今後の国づくりにとって重要なテーマを多く取り上げていて、安倍さんも憲法改正や教育基本法改正などの「戦後レジームからの脱却」ばかりに力を入れていたわけではなかった。私が取材してきた政府のIT政策も、従来のバラマキ型戦略から新しい仕組みづくりへ力点を移していると私自身は前向きに評価していた。

 ただ、経済財政諮問会議はすでに形骸化していたし、官邸主導による役所のコントロールも上手く機能しているようには見えなかった。逆に大臣に相次いで不祥事が発覚して「チーム安倍」の力が低下してしまい、「美しい国づくり」どころではなくなってしまった。

 安倍さんは、少し急ぎすぎたのかもしれない。日本の将来を考えれば、急がなければならないという思いも理解できるが、日本という国は歴史を振り返っても自らの力で大きく変われない国のようにも思える。とくに戦後、世界中が注目するような経済発展を遂げただけに、その成功体験から脱却するのは容易ではないかもしれない。

 10年後、20年後になって、改めて振り返ったときに、安倍さんのめざした「美しい国づくり」がどう評価されるだろうか。「あの時に、もっと積極的に進めていればよかった…」と評価される時は来るだろうか。