「ニュースを聞いたとき一瞬、凍りついた。日本の建設技術に何か異変が起きているのではないかと感じた」―日本の政府開発援助(ODA)によってベトナム・メコン川で大成建設、鹿島建設、新日鉄エンジニアリングの3社が建設を進めていたカントー橋が9月27日に崩落した後に、あるゼネコン幹部がそんな感想を漏らした。まだ事故の原因は判っていないが、私も全く同じことを感じていた。2003年8月の新潟県・朱鷺メッセの連絡橋崩落事故、04年4月に西松建設が建設中だったシンガポール地下鉄トンネル崩壊事故、05年11月の耐震強度偽装事件ときて今回である。不良債権処理、談合問題ばかりに目を奪われているうちに、日本の建設技術そのものが劣化し始めているのではないか?
建築基準法改正は技術者を淘汰するための仕組みか?
 
 姉歯元建築士による耐震強度偽装事件をきっかけに大幅に強化された改正建築基準法が施行されて建築確認申請手続きの混乱が続いているが、よくよく考えてみると、データ偽装を見抜けなかっただけの対策としては大袈裟すぎる。
 
 意図的にデータ偽装して強度不足になると罰せられるが、「真面目に構造計算したけど結果的に強度不足になった」と言い張ってしまえば責任を逃れられる。どちらが悪質か?と言えば一般的には前者の方なのかもしれないが、どちらが恐ろしいか?と言えば後者であろう。
 
 耐震強度偽装事件のあとの国土交通省の対応も、データ偽装をする不良業者を排除しようというだけでなく、技術力不足で正しい構造計算ができないような技術者をも淘汰していこうという意図も働いているということか。建築士という資格そのものが国家資格であり、その国家資格者を淘汰するのも国の役割と思っているのかもしれないが、いかにも役人が考えそうなことではある。
 
 もし国交省の姿勢の背景に、日本の建設技術の劣化があるとするならば、事態は恐ろしい方向へ進んでいることになる。建築確認検査制度だけを厳格化したところで問題解決は困難ではあるまいか。むしろ建築確認で許可が下りた図面通りにさえものづくりを行えば良いと現場が考えるようになる方が事態を悪化させるような気がしてならない。
 
官も民も現場で人が育っていない?
 
 朱鷺メッセの連絡橋崩落事故の半年後に、国交省の技術官僚幹部に取材したことがある。幹部は、建設業者の技術力低下を懸念すると同時に、国交省技術官僚の現場技術が衰えていることを危惧していた。1つの事例としてあげたが大型橋梁工事。1999年までに本州四国連絡橋が全て完成してしまい、それ以降、プツッと大型橋梁の工事がなくなってしまった。
 
 「いまや現場を任されている技術官僚で、大型橋梁工事の現場を最初から最後まで経験した人間はいなくなっている。もはや日本では大型橋梁プロジェクトを任せられる技術者はいないかもしれない」と、思わずそんな悲観的な言葉も飛び出した。
 
 経験工学と言われる建設技術において現場が技術者を育てる。裏を返せば、現場を知らないような人間がチェックした建設図面で、どこまで品質を確保できているのか?ということである。
 
 朱鷺メッセの連絡橋崩落事故では、新潟県の事故調査委員会が落下の直接的原因を斜材ロッド定着部の耐力不足にあったとして設計上の問題を指摘した。一方、日本建築構造技術者協会(JSCA)の事故調査報告書では、施工中に行ったジャッキダウンによる躯体のひび割れに対する疑い(現場検証が認められなかったので確認はできなかったようだが…)を示した。
 
 「朱鷺メッセ連絡橋は、現在可能な技術を駆使して、軽快な歩道橋を経済的に創出しようと試みたもので、新しさに挑戦した意欲は理解する。この構造が持つ力学的な特異性に対し、設計・監理・施工を進める過程で、関係者が持つべき緊張感が希薄であったと思われることは、この問題をめぐる社会的システムを検討する必要があることを示唆している」(JSCA事故調査報告書から2004年2月10日)
 
 設計・監理・現場の緊張感―この報告書で指摘されていたように、建設の「ものづくり」は、役割分担された仕事をこなすだけで良いものが黙っていても出来上がるようなものではない。冒頭に発言したゼネコン幹部も、「建設物の品質は、設計・監理・施工が一体になって確保するもの。それが当たり前のことだったのに…」。その当たり前のことができないようになっているのか?
 
役所も企業も人材を育ててきたのか?
 
 もちろん技術者を育てるために不要な橋梁まで作るわけにはいかないが、「バブル崩壊後、チャレンジする仕事が減ってしまい、バブル期に大量採用した人材が育っていないという話をあらゆる企業で聞くようになった」とは、ある人材コンサルタントの話。仕方がないから、あらゆる仕事でマニュアル化が進み、とりあえず指示通りに仕事をすれば責任は逃れられるやり方ばかりが広がっている。
 
 今回の建築基準法改正によって行われた建築確認検査制度の見直しも、発想は同じなのかもしれない。建築確認申請の段階でチェックを厳しくしておけば、建設物が完成したときに何か問題が発覚したとしても「建築確認の段階では瑕疵はなかった」。よって「瑕疵が発生したのは全て施工業者の責任」であって「建築確認検査制度を所管する国に責任はない」という論理になるからだ。
 
 この問題を現場に密着して取材していたある専門雑誌の記者も「役人の面子だけで行われた法改正」と切って捨てた。散々、国の責任を叩かれたことに対する役人の面子という意味だが、要は保身ということである。
 「当初はマスコミも事件を起こした事業者を叩いていたが、最後は国の責任にしたではないか。あのときに国に責任はないと言って、国会議員もメディアも納得したのか?そもそも、制度を悪用していたのは民間業者なのだから…」―国交省関係者からはそんな言い訳も聞く。
 
専門家は専門家としての役割を果たしているのか?
 
 もちろん建築技術のことなど判らない国会議員やマスコミがそんな説明で納得するはずはない。私自身、2006年5月に建築基準法改正案が国会に提出される直前に、耐震強度偽装事件を追及していた民主党の馬渕澄夫衆議院議員に議員会館に呼び出されて意見を求められたことがある。
 
 「建築確認申請だけを強化しても問題解決にならない」と私の持論を展開すると、プイと横を向いて、すっかり興味を失った様子。要は国交省から提出された建築基準法改正案の穴を探して、パフォーマンスのネタを考えろ!という話だった。
 
 馬渕議員はもとは土木技術者という話だが、専門的技術の議論を国会議員やメディアに期待する方が無理というものである。それを真に受けて国会議員やメディアの言うがままに建築基準法を改正したとすれば、高度な専門性を期待されている技術官僚は何のためにいるのか?建設業界も言われるがままに法改正を受け入れたわけで、これも建設技術の劣化を意味しているのかもしれない。
 
 自然を相手にする建設工事で事故をゼロにするのは不可能だろうし、かつては大きな事故もなかったわけではない。しかしNHKのプロジェクトXでも建設プロジェクトが多く取り上げられたように、日本の建設技術者は多くの困難な工事に挑戦して成功を成し遂げてきた。自重で崩落してしまうような構造物を作ったとか、工事中に橋が崩落したとか、データ偽装による鉄筋不足を現場で見抜けないとか、そのような話は90年代の半ばぐらいまではほとんど聞かなかったように思う。
 
 2007年に始まったゼネコン危機から10年―。過剰供給と言われながらも多くのゼネコンが生き延びてきた。談合問題にもようやくメスが入り、今月には防衛施設庁の談合事件に関係して多くのゼネコンが営業停止処分期間に入る。それらの問題が改善したとしても、肝心要の建設技術が劣化し始めているのであれば元も子もない。

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